愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 190 飛蓬-97 小倉百人一首:(坂上是則)朝ぼらけ 

2021-01-18 10:34:12 | 漢詩を読む
31番 朝ぼらけ 有明の月と みるまでに  
      吉野の里に ふれる白雪  
          坂上是則『古今集』冬・332 
<訳> ほのぼのと夜が明けるころ、空に残っている有明の月の光が降り注いでいるかと思うばかりに、吉野の里に降り積もっている白雪よ。(板野博行) 

oooooooooooooo 
ふと目を覚ますと周囲が明るい。残月の月明りかと思いきや、一面雪化粧による雪明りであった。以前、権中納言定頼の、宇治川で徐々に途切れゆく川霧の切れ間に、次第に姿を現していく網代木の情景を読みました。ともに冬の“朝ぼらけ”、名勝地

作者・坂上是則は、かつての征夷代将軍・坂上田村麻呂から5代目の子孫で、貴族・歌人。官位は従五位下・加賀介に至った。三十六歌仙の一人。子息の望城も歌に優れていて、“梨壷の五人”のうちの一人である。

是則の歌は、李白:<<静夜思>>:「疑是地上霜 [地上に降りた霜による明るさかと思った] ら、月明かりであった」と、雪と霜の違いはあるが、全く逆の展開である。七言絶句にしました。承句は、李白に倣った。

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声七陽韻] 
 吉野郷里雪光 吉野の郷(サト)の雪光(ユキアカリ)  
払暁明明違往常, 払暁(フツギョウ) 明明(メイメイ)として往常(イツモ)と違(タガ)い, 
使人疑惑是月光。 人をして是(コ)れ月光ならんと疑惑(ギワク)せ使(シ)む。 
但没天亮那残月、 但(タダ) 天亮(ヨアケ)の那(カ)の残月はなく、 
一片白雪吉野郷。 一片(イチメン) 白雪の吉野の郷。 
 註] 
  雪光:雪明り。       払暁:あかつき、あけぼの。
  明明:たいそう明るいさま。 往常:ふだん、いつも。
  疑惑:疑わしく思う。    天亮:夜が明ける。
  吉野郷:奈良県中部、桜の名所。 

<現代語訳> 
 吉野の郷の雪明り 
あかつきの頃 いつもと違うほどに明るく、 
有明の月の光が降り注いでいるものとばかり思っていた。 
ところが想像していたあの残月はなく、 
辺り一面雪化粧した銀世界の吉野の郷である。 

<簡体字およびピンイン> 
 吉野乡里雪光 Jíyě xiānglǐ xuě guāng   
拂晓明明违往常, Fúxiǎo míngmíng wéi wǎngcháng, 
使人疑惑是月光。 shǐ rén yíhuò shì yuèguāng.  
但没天亮那残月、 Dàn méi tiānliàng nà cányuè, 
一片白雪吉野乡。 yīpiàn báixuě Jíyě xiāng.   
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坂上是則は、平安時代前期から中期にかけて活躍した貴族、歌人。その生年は不詳、930年(?)没。かの征夷大将軍・坂上田村麻呂の五代後の子孫である。父・好蔭(ヨシカゲ)も、陸奥権介の任にあって蝦夷の乱の鎮圧に貢献している(元慶の乱、879)。

当時、内政面では承和の変(842、閑話休題-189)に続く3、40年、やはり皇位継承に混乱が見られた。その混乱を契機に、藤原良房の後を継いだ基経(836~891)が台頭し、摂政・関白の新役職を設けて政務に口出しできる道を開き、権力構造を確立した(同-170)。

是則が仕えた59代宇多天皇(在位887~897)および60代醍醐天皇(在位897~930)の頃は、それぞれ、“寛平の治”および“延喜の治”として比較的に安定していた時代であった。紀貫之や凡河内躬恒らによる第一代勅撰和歌集『古今和歌集』が撰された頃である。

是則は、901年3月3日に紀貫之邸の庭で催された曲水の宴・歌会で詠進して、歌壇デビューの機会となったということである。参加者は8人で、凡河内躬恒・藤原伊衡・紀友則・藤原興風・大江千里・坂上是則・壬生忠岑・紀貫之の順で出詠した と。その折の詠歌は、家集「紀師匠曲水宴和歌」として残されている。

『古今和歌集』の撰に関わった紀貫之らに次ぐ優れた歌人であったと評価されている。上掲の歌でもそうであるが、是則のおおらかで、伸び伸びとした趣きの歌は、平穏であった時代を反映したものと理解されています。

是則は、908年大和権少掾、次いで大和大掾に任じられ、912年少監物に転じ、帰京後、少内記、大内記を経て、従五位下加賀介(924)と栄進している。大和の自然は熟知しているのでしょう、大和を主題にした歌が多いと。上記の歌は、大和権少掾に任じられて大和を訪れた折の作とされています。

当時の多くの歌合にも出詠するなど歌人としての活躍も活発であったようで、『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に39首入集され、家集に『是則集』がある。後に三十六歌仙の一人に選ばれている。

特筆すべき逸話に蹴鞠に秀でていたことが挙げられる。醍醐天皇の御前で行われた蹴鞠で206回、一度も落とさず蹴り続けて、天皇の賞賛を受け、褒美に絹を下賜されたという。田村麻呂の血を承けて(?)運動神経がよく発達していたのでしょう。

子息の望城(?~980)も和歌に優れていた。62代村上天皇(在位946~967)の命により設けられた和歌所の寄人(御書所預)となり、いわゆる“梨壷の五人”の一人として、『万葉集』の訓読や第2代勅撰和歌集・『後撰和歌集』の撰集に当たっている。

同じく“朝ぼらけ”で始まる百人一首の歌に、権中納言定頼作の歌(百人一首64番)があり、本シリーズですでに読んでいます(同-147)。是則の歌が“静止画”であるのに対して、定頼の歌は刻々と情景が変わりゆく“動画”と言えようか。比較参照の為、再掲します。

64番 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに 
     あらわれわたる 瀬々の網代木(権中納言定頼『千載集』冬・419) 
    [明け方、あたりが徐々に明るくなってくる頃、宇治川の川面にかかる 
    朝霧も薄らいできた。その霧が切れてきたところから現れてきたのが、 
    川瀬に打ち込まれた網代木だよ。](小倉山荘氏) 
コメント
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