宋代の詩人蘇軾(1037~1101)の詩《驪山三絶》に韻を借りた(依韻)詩《京都嵐山三絶》の詩作に挑戦しています。名勝地・京都嵐山の気に入ったスポット、今回は大沢池を擁する大覚寺に焦点を当てました。依韻とは、同じ韻に属する語を脚韻に用いることを言います。
大沢池は、日本最古の人工湖で、中国の洞庭湖を模したとされる。その上流にはやはり石組の滝が人工的に作られていた。現在は“名古曽の滝跡”として、その名残をとどめている。築造の頃を偲びつゝ、その頃の姿を思い描ける詩を と心掛けました。今日、この界隈は桜・紅葉・中秋の観月など、四季折々に目を楽しませてくれる名勝である。
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<漢詩および読み下し文>
依韻蘇軾《驪山三絕·· 其三》 京都嵐山三絶 其三 大沢池 [上平声十五刪韻]
水経瀑布下旋山, 水は、石組の瀑布を経て 山を旋(メグッ)て下り,
留池行行向海還。 池に留(トド)まり 行き行きて海に向かいて還(カエ)る。
帝把池摸洞庭水, 帝(テイ)は池を把(トッ)て洞庭水(ドウテイスイ)に摸(モ)す,
庭園奕奕是仙寰。 庭園は奕奕(エキエキ)として是(コ)れ仙寰(センカン)。
註] 〇瀑布:大沢池の上流に石組で作られた“勿来(ナコソ)の滝”; 〇池:大沢池;
〇行行:行き続ける; 〇帝:第52代嵯峨天皇; 〇洞庭水:中国長江中流にある
洞庭湖; 〇庭園:人工湖「庭湖」である大沢池を擁する大覚寺の庭園;
〇奕奕:非常に美しいさま; 〇仙寰:別世界。
<現代語訳>
蘇軾《驪山三絕·· 其三》に依韻す 京都嵐山三絶 其三 大沢池
水は、石組の人工滝を経て 山を回って下り、
大沢池に一時留まり 下流に流れて 遂には川を経て海に注ぐ。
嵯峨天皇は、人工的に“大沢池”を造成し、中国の洞庭湖に模した、
その庭園は素晴らしく、四季折々の明るく美しい景観は別世界である。
<簡体字およびピンイン>
依韵苏轼《骊山三绝 其三》 京都岚山三绝 其三 大泽池
Yī yùn SūShì “líshān sān jué qí sān” Jīngdū lánshān qí sān Dàzéchí
水经瀑布下旋山, Shuǐ jīng pùbù xià xuán shān,
留池行行向海还。 liú chí xíng xíng xiàng hǎi huán.
帝把池摸洞庭水, Dì bǎ chí mō dòngtíng shuǐ,
庭园奕奕是仙寰。 tíng yuán yì yì shì xiān huán.
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<蘇軾の詩>
驪山三絶 其三 [上平声十五刪韻]
海中方士覓三山, 海中の方士 三山を覓(モト)め,
万古明知去不還。 万古 明らかに知る 去って還(カエ)らざるを。
咫尺秦陵是商鑑、 咫尺(シセキ)の秦陵(シンリョウ)は是れ商鑑(ショウカン)、
朝元何必苦躋攀。 朝元 何ぞ必ずしも苦(ネンゴ)ろに躋攀(セイハン)せん。
註] 〇方士:仙人の術を行う人、方術の士、道士; 〇覓:尋ねる、探す、求める;
〇三山:東の海上にあると伝えられた三つの山、蓬莱・方丈・瀛州(エイシュウ);
〇咫尺:きわめて近いこと; 〇秦陵:秦の始皇帝の陵、七十万の人々を使役して
建てられたという; 〇商鑑:商すなわち殷のかがみ(商は殷の別名)、殷の国が
戒めとするべき事柄; 〇朝元:華清宮の内部にあった楼閣の名、慶暦年間(1041~
8)に焼失した; 〇躋攀:朝元閣は非常に高いので、階段の柱を紅の綿の‘くみ
ひも’で繋ぎ、宮女たちは其れにつかまりながら辛うじて階段を上ったという。
<現代語訳>
驪山三絶 其三
東の海に向かう方士たちは三つの仙山を求めて旅立ったのだが、
いくら時間を費やしてもそんな山を見つけて帰ることなどできぬことは明らかだ。
目の前の秦陵は悪いお手本としていましめるべきもの、
唐代の朝元閣は、登るに難儀するほど高大なものにする必要がどうしてあったあろう。
[石川忠久 NHKブンカセミナー 漢詩を読む 蘇東坡]
<簡体字およびピンイン>
骊山三绝 其三
海中方士觅三山, Hǎi zhōng fāngshì mì sān shān,
万古明知去不还。 Wàn gǔ míng zhī qù bù huán.
咫尺秦陵是商鉴、 Zhǐchǐ qín líng shì shāng jiàn,
朝元何必苦跻攀。 cháo yuán hé bì kǔ jī pān.
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蘇軾の詩の前半は、徐福伝説でしょうか。天下統一後、なお永遠の生命をと願う秦始皇帝を、“東方の仙山で不老不死の霊薬を求め帝に献上します”と誑(タブラ)かして、大いなる富をせしめた徐福。帰還することのないことは分かり切ったことであったろうに と。
始皇帝が築いた高さ76m、底辺面積50数km2という巨大な陵墓、中に宮殿のような広い空間があるとされている。この眼前の陵墓を鑑とすべきを、唐の玄宗はなお華清宮・朝元閣に見るような無用の長物を拵えている と。若手官僚の意気が感じられる詩である。
話は変わって大沢池。京都北嵯峨・大覚寺境内にある大沢池は、中国・唐文化への憧れが強かった第52代嵯峨天皇(在位809~823)が、中国の洞庭湖を模して築造した人工池である。大覚寺の前身は、嵯峨天皇の離宮で、その庭園には、唐風文化の理想郷を作るべく巨費を投じて滝を備えた人工湖・「庭湖」(現 大沢池)が作られた。
大沢池の北東約100m地点に石組が組まれて人口の滝が築かれていた。滝から流れる豊富な水流は、その南方に開削された幅5~10mの蛇行溝を通って「庭湖」に注いでいた と。離宮の庭園は泉、滝、名石などの美を極めた庭園であった由。
約百6、70年後に藤原公任(キントウ、966~1041、閑話休題148参照)が訪れた頃には、滝の石組は土に埋もれて、滝の音も聞こえなくなっていた と歌(下記)に書き遺している。石組みの人工滝は、今日この歌に因んで“名古曽(/勿来(ナコソ))の滝”と命名されている。
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名古曽ながれて なお聞こえけれ
(大意) 滝の水音は途絶えて久しいが、その名声だけは今に流れ伝わって、人の口端に
上っていることだ。
(大納言公任 百人一首55番;『千載集』雑上・1035)