“太真”は、楊貴妃の女道士となった折の名でした。また‘漢の使者が訪ねてきた’との知らせに、飛び起きて、“取る物も取り合えず”の慌てぶりで、涙ながらに堂を駆け下りてきました。違うことなく、方術士は楊貴妃の魂魄に巡り会えたようです。
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<白居易の詩>
長恨歌 (14)
93攬衣推枕起徘徊、 衣を攬(ト)り枕を推(オ)し起(タ)ちて徘徊し
94珠箔銀屏邐迤開。 珠箔 (シュハク)銀屏 (ギンペイ)邐迤(リイ)として開く
95雲鬢半偏新睡覺、 雲鬢 (ウンピン)半ば偏(カタム)きて 新たに睡(ネム)りより覚め
96花冠不整下堂來。 花冠(カカン)整はずして堂を下(クダ)りて来る
97風吹仙袂飄颻舉、 風吹きて 仙袂(センペイ)飄颻(ヒョウヨウ)として挙がり
98猶似霓裳羽衣舞。 猶ほ霓裳(ゲイショウ)羽衣(ウイ)の舞に似たり
99玉容寂寞涙瀾干、 玉容(ギョクヨウ)寂寞(ジャクマク)として涙瀾干(ランカン)たり
100梨花一枝春帶雨。 梨花一枝 春 雨を帯ぶ
註] 〇徘徊:進みあぐねるさま。動揺してうろたえている姿をいう; 〇珠箔:真
珠で編んだすだれ; 〇銀屏:銀の屏風; 〇邐迤:折り畳んだものがしだいに
開いていくさま; 〇雲鬢:女性の鬢の毛の美しさを雲に譬えていう語;
〇花冠:女道士の花飾りのかんむり; 〇袂:衣服のそで、たもと; 〇飄颻:
風に翻る; 〇猶似:2字で“……のようだ”; 〇玉容:美しい容貌;
〇瀾干:涙が縦横に流れるさま; 〇梨花:花の白さは、楊貴妃がすでに
この世の人ではないことを示す。
<現代語訳>
93上衣を取り、枕を押しのけ、起き上がってそぞろ歩き回り、
94真珠のすだれ、銀の屏風がつぎつぎに押し開かれる。
95雲のように豊かな鬢の毛が一方に片寄り、まだ眠りから醒めたばかりの様子で、
96花の冠も整えずに、御殿を下りて来た。
97風が吹いて、仙女の袂(タモト)は踊るようにひるがえり、
98かつて宮殿に奏した霓裳羽衣の舞を思わせる。
99玉のかんばせは精気に乏しく、涙がとめどなく溢れ、
100あたかも春雨に濡れた一枝の梨の花だ。
[川合康三 『編訳 中国名詩選』 岩波文庫 に拠る]
<簡体字およびピンイン>
93揽衣推枕起徘徊、 Lǎn yī tuī zhěn qǐ pái huái, [上平声十灰韻]
94珠箔银屏逦迤开。 zhū bó yín píng lǐ yí kāi.
95云鬓半偏新睡觉、 Yún bìn bàn piān xīn shuì jiào,
96花冠不整下堂来。 huā guān bù zhěng xià táng lái.
97风吹仙袂飘飖举、 Fēng chuī xiān mèi piāo yáo jǔ, [上声六語韻] 通韻
98犹似霓裳羽衣舞。 yóu shì ní shang yǔ yī wǔ. [上声七麌韻]
99玉容寂寞涙澜干、 Yù róng jìmò lèi lán gàn,
100梨花一枝春带雨。 lí huā yī zhī chūn dài yǔ.
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前回から続く。まず老荘思想。字面通り、老子(生没年不明、『史記』には紀元前6世紀ごろ)および荘子(BC369?~BC286?)が著した、それぞれ、『老子(老子道徳経)』および『荘子(ソウジ)』を基にした思想である。『老子』では、社会の在り方や国家の事、『荘子』では、個人の思想に焦点が当てられている と。
長い間、両著書は別々に扱われてきた。しかし儒家の礼・徳を不自然で作為的であるとして否定し、無為自然(自然体)であるべき と説く点、共通の面がある と、淮南王・劉安(BC179~BC122)は、「老荘」と両者を合体して論じた[淮南子(エナンジ、BC139成立]。すなわち、国の政(マツリゴト)、人の生きざまともにあるがまゝであるべきとした思想・老荘思想である。
道教は、漢民族固有の宗教で、中国における三大宗教の一つである。伝説上の人物・黄帝を始祖、老子を大成者とする“黄老思想”を根幹として、後漢の頃、帳陵(チョウリョウ、生没年不詳)が教祖となって教団が創設され、道教が始動する。多神教で、その概念規定は確立されておらず、さまざまな要素を含んだ宗教である と。
すなわち、老子の思想を根本として、その上に不老長生を求める神仙術や呪術、亡魂の救済、災厄の除去などに関わる三国時代の太平道、五斗米道、さらに仏教の影響など、時代の経過とともに様々な要素が取り入れられ、積み重なった宗教ということである。
道教は、巫術や迷信と結びついて社会の下層ばかりでなく、社会の上層においても皇帝個人の不老長生の欲求を満たす、または支配力を強めるなどと利用されることもあった。西晋の頃、陶淵明や竹林の七賢で代表される隠遁生活を送った知識人の精神の拠り所ともなった。道教から生まれた文化は現代に、さまざまな民間風俗として生きているようである。
後漢末頃に生まれた道教は、隋唐から宋代にかけて隆盛の頂点に至った と。玄宗皇帝は、当初、儒学を重んじ、「開元の治」と称えられる善政を敷いたが、後に儒教的理念から離れて道教に傾倒していったようである。楊貴妃を妃に迎えるに当たって、女道士として出家させ“太真”と改名させたことにもその一端が窺われるようである。
[句題和歌]
長恨歌の“梨花一枝春带雨”は、『漢辞海』(戸川芳郎 監修 佐藤進・濱川富士雄 編 三省堂)に一句丸ごと一項目として建てられ、《ナシの花が一枝、春の雨にぬれる。楊貴妃が泣きぬれた様子を形容した句。美人が涙ぐむさまのたとえ。(白居易-詩・長恨歌)》と解説が付いています。ことほど左様に、この句が日本の人々によく知られた有名な句であると言える。
『漢辞海』に今一度登場してもらうと、“梨雪(リセツ)”の項が設けられており、《ナシの花の白さを雪にたとえていう》と解説されている。その白さから“清純な”イメージが持たれるためであろう、“梨花”の花言葉として「愛情」が当てられている。
わが国では、現に桜や梅・菊ほどに、“梨花”が愛でられている風にはみえない。平安の頃は、むしろ一般に忌避されていたように思われる。清少納言は『枕草子』「木の花」の項で、“……梨花はつまらぬもので、特に有難がられることもない、……かわいげのない人の顔を見て、「梨花みたい」と たとえて言うのも頷ける……”と記している。
但し、納言自身は、“唐(モロコシ)では、詩文によく出て来るゆえ、それなりの理由があるであろうと、よく観てみると、花びらの端に、趣きのある美しい色つやが微かについているようで、……楊貴妃が、帝のお使いに会って泣いた顔を「梨花一枝春帶雨」と譬えられたのも頷ける”として “やはり梨花はほかに類なく美しいと思われた”と肯定的に捉えています。
第100句 “梨花一枝春帶雨” に思いを得た、藤原為家の句題和歌を紹介します。藤原為家(1198~1275)は、鎌倉中期の公家・歌人。藤原北家御子左流・藤原定家(閑話休題156参照)の三男。後嵯峨院歌壇の中心的な歌人として活躍、勅撰集・『続後撰和歌集』を単独で撰進している。
聞きわたる 面影見えて 春雨の
枝にかかれる 山なしの花(藤原為家『新撰和歌六帖』)
(大意) ずっと耳にしていた楊貴妃(春雨に濡れた一枝の梨花)の面影がやっと見えてきたようだ。