だいぶ以前になりますが、ふとっちょパパさんが、阿刀田高氏の「楽しい古事記」という本を紹介されていました。
古事記は、幼い頃、「やまたのおろち」「因幡の白兎」「海彦・山彦」といった断片的な昔話としては読んだことがあるのですが、「古事記」として「通し」で読んだことはありませんでした。
今回、読んでみたのは梅原猛氏の訳による「古事記」です。
内容は、梅原氏の訳文のスタイルにもよるのでしょう、想像していたものにくらべてかなり淡白な印象をもちました。
多くの神々が登場しますが、それほど人物?描写が細かいわけでもなく、善悪もはっきりしています。後半部分になると「古歌」のやりとりが増えて叙情的色合いを帯びた記述になりますが、前半は「歌」による描写も直截的に感じます。
よく言われることですが、古事記には他の国々の神話・伝説との類似点があります。
読んでみて誰でも気づくのが、伊耶那岐命が黄泉の国へ伊耶那美命を訪ねるくだりでしょう。この部分はギリシャ神話のオルフェウスとエウリディケの話に設定が似ています。
古事記に描かれたそのほかの神々のエピソードも、インド・ヨーロッパ語系の神話やアジア・太平洋諸国の神話に多くの類型が見られるそうです。
訳者の梅原氏によると、古事記の解釈には大きく2つの暗黙の前提があると言います。
ひとつが「本居宣長」の「古事記伝」に示された注釈であり、もうひとつが「津田左右吉」の実証的立場からの記紀批判です。
梅原氏は、本居宣長の解釈を尊重しつつも、その未解決の部分を、金田一京助氏が日本語との関係性を否定した「アイヌ語」を武器に再解釈したのでした。
また、津田左右吉が架空であると否定した仲哀天皇以前の記述についても、歴史研究の素材としての意味を有しうるものだと主張しています。
さらに梅原氏は、本書の解説「古事記に学ぶ」で大胆な仮説を開陳しています。
「古事記」の撰者とされている「稗田阿礼」という人物は、「藤原不比等」以外に考えられないとの説です。さらに、氏の大胆な発想は、その撰のもとになった「原古事記」の作者の一人は「柿本人麿」であったという仮説に至ります。
もちろん、本書では、梅原説の当否について詳細に立論されていません。
が、「古事記」には、そういう破天荒な発想を(梅原氏としては十分な根拠のあるものでしょうが、)かきたてるようなおおらかな刺激が感じられます。
古事記 価格:¥ 546(税込) 発売日:2001-01 |