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中学校まで (羊の歌‐わが回想‐(加藤周一))

2009-02-14 16:51:53 | 本と雑誌

 加藤周一氏の著作は、「吉田松陰と現代」をはじめとして何冊か読んでいます。

 本書は、先に読んだ鶴見良行氏による「バナナと日本人」と同様に、岩波新書創刊70年記念の企画「私のすすめる岩波新書」というコーナーで紹介されていたので手にとったものです。

 内容は、加藤氏自らが記した半生の記録で、幼い頃から終戦期までを対象としていますが、それ以降は、続編も出ているようです。
 体裁は1テーマ10ページ程度のエッセイ集という趣きで、興味深いエピソードが満載ですが、その中で特に私が関心を持った部分を紹介します。

 まずは、加藤氏の「評論家」としての萌芽が感じられるフレーズです。

 
(p25より引用) 私は、すべての宴会なるものに対して私自身がいつも他処者であるほかはないのではなかろうか、ということに気がついた。その考えは、後悔でも、口惜しさでも、悲しみでもなかったが、一種の決断を迫るものにはちがいなかった。

 
 幼い頃の田舎での集まりの記憶と、後のメキシコ・シティでの光景とが重なって、自分が「観察者」であることを意識した瞬間があったようです。

 もうひとつ、少年時代、病がちだったこともあり、周囲との直接の接触の機会も少なかったようです。
 その中で加藤少年は、読書を通じて純粋培養的な思想を育みました。

 
(p44より引用) 私は好奇心に溢れていて、しかも周囲の世界とは何らの交渉ももっていなかった。世界は変えられるためではなく、まさに解釈されるためにのみ、そこにあった。・・・その後ながく私は、世界が解釈することのできるものだということ、世界の構造には秩序があるということを、決して疑ったことがなかった。

 
 幼稚園にも通いましたが、そこでも馴染めなかったといいます。そして小学校でも同じでした。

 
(p48より引用) 小学校の校庭で遊びに加わることを望まなかった私は、児戯のばかばかしさに閉口していたのである。しかし子供は子供の役を演じるほかはない。したがってばかばかしさは、自分自身にも向けられざるをえないだろう。それは自己嫌悪の一歩手まえである。-ということを、理解していたのは、むろん当人ではなく、おそらく父でさえもなく、ただひとりの母親だけであった。

 
 このころ、吉野源三郎氏の名著「君たちはどう生きるか」の主人公コペルくんと同じような体験も描かれていて興味深いものがありました。

 そして、東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)時代、芥川龍之介を耽読しました。
 そこで受けた「芥川の一撃」です。

 
(p98より引用) 「軍人は小児に似ている・・・」と芥川が書いたのは、1920年代である。・・・学校でも、家庭でも、世間でも、それまで神聖とされていた価値のすべてが、眼のまえで、芥川の一撃のものに忽ち崩れおちた。それまでの英雄はただの人間に変り、愛国心は利己主義に、絶対服従は無責任に、美徳は臆病か無知に変った。私は同じ社会現象に、新聞や中学校や世間の全体がほどこしていた解釈とは、全く反対の解釈をほどこすことができるという可能性に、眼をみはり、よろこびのあまりほとんど手の舞い足の踏むところを知らなかった。

 
 

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コメント (1)
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