川上ダム観眺台(ミテチョーダイ)から「史蹟 阿保頓宮跡」(アオトングウシ)・「阿保親王陵」(アオシンノウリョウ)へ

2021-01-28 00:52:59 | 神社仏閣など
舌をかまないように読んでいただくとして…
マップを見ていると何やら歴史的というか神話的というか、
「阿保(アオ)」(現・伊賀市)という土地は、古くから拓かれていたらしいのですが、
神話の世界に迷い込んでいるワタシが伺ったのは、
「誰かのお墓…」、天正13年ごろには「お城」があったとか、、、

一体どんなとこ??

相変わらずの思い付きではありますが、私的ダム見学の帰り道に
ちょっと寄り道すれば行けるところにありそう。

(川上ダムからの帰路なので)
県道29号線(松阪青山線)青山羽根交差点手前を右折
少し走ると旧阿保街道に入り、そのかかり左手に「大常夜燈」があります。
  まっすぐ行けば「街道」が続く
そこを右折すれば、、、(google mapもyahoo mapもいろんな書き方で記載されてますが…)

【史蹟 阿保頓宮跡】(シセキ アオトングウシ)
旧青山町の「あおやま風土記」によりますと、
≪第十一代垂仁天皇の皇子、息速別命(イコハヤワケノミコト)の御墓の向かい側、
県道から東へ29段の石段を上りますと、すぐ右に四方に土塁をめぐらし、
椿、樫などの大木に囲まれた平坦な草生地があり
「史蹟阿保頓宮阯(とんぐうし)」と刻まれた石碑が建っています。

ここは天平12年(740)第四十五代聖武天皇が、藤原広嗣の乱を避けて、
伊賀、伊勢を越えて行幸の際、一夜を明かされた仮の宮居の跡であり、
その前後600年間も続いた齋王(さいおう)(*天皇の名代として伊勢の神宮に使える皇女)の
往復時の宿泊所の跡でもあり、
又後に天正13年(1585)大和から伊賀へ入国した筒井定次の部下、岸田伯耆(ほうき)が
この地形を利用して築いた城跡でもあると伝えられています。
なお土塁上の北西部と南東部の2カ所に嘉永6年(1853)に建立した
息速別命外二神を祭る小祠もあります。≫

要するに
①天平12年(740) 聖武天皇の宿泊宮跡であり、
②斎王*の宿泊所となり、
③天正13年頃、城が造られていた。

ここは、利活用するに余りある優れた土地だった…ということでしょうか。
春になって芽吹きだすと厳かな雰囲気のいいところだろう、
と思うのですが、ワタシは今(=冬)!がいい(笑)。

この標識に嬉しくなります、それとなく大事にされているのだろうなぁと。
 駐車は可能ですが、大きな声では言えない…
(少しの時間止めさせてくださいと、そっと祈るかんじ
上に転記の文章では29段とありますが、ワタシは数えなかった。
上りきると
 
視界が広がり、空も見える、土塁もあります。
虎口と思われるところから入ります
   
虎口すぐ傍、土塁上に小さな祠

降りて、見渡すとスッキリ綺麗に整えられている場所だなぁと
(地元の方々の手入れのお陰かと…) 
真ん中に「石碑」、右手側からグルっと一周です。
   

210125 阿保頓宮跡


動画は、中央辺りから向いの虎口へ抜けて行くところ、いかにも歩いてる感まるわかり(笑)。
せっかくの神聖感が台無しですけど、そこはごめんなさい(笑)。
新緑の頃がいいだろうなぁと思いつつ歩いてみたのです。
二つ目の祠(これも土塁の上にある)
 

  『史蹟 阿保頓宮跡』石碑
「三重縣」です、昭和4年3月建立とか…
ここから入り口の虎口を

お暇して、外に出て、一瞬雪に見えた、、、(何かはわからない?)
  椿の葉っぱが艶々してた(笑)。

さて、元来た階段を下りると、道向かいに何やらこんもりした「森」が見える。
地図を見ると「お墓」らしいけど、かなり古そうな…
  
近づいたので、ちょっと中を
 こんもりと土盛が見える…
 唯一の立札
「宮内庁」でした。

帰り道に
  この石段の先が「頓宮跡」

帰宅後調べると、ここは
阿保親王陵】(あおやま風土記より)

≪第十一代垂仁天皇の皇子、息速別命(再掲・イコハヤワケノミコト)が、伊賀地方を治めるため派遣され、
阿保に宮室を築いてお住みになっていたことから、通称は『阿保親王』と呼ばれ、
その子孫も代々阿保の地に住み、第十九代允恭天皇のとき居住地の名により『阿保』という姓を賜ったといわれる。

その墓は阿保西部のまちはずれ、種生・矢持に通じる県道のすぐ下にある。
明治9年に御陵として指定されて以来は、四方に玉垣が張りめぐされ、正面には遥拝所もある立派なお墓で、
伊賀地方では唯一の宮内庁所管陵墓である。≫ とのこと。

そうそう、この息速別命は「倭姫命」の弟だそうで、
ワタシが彼女の足跡を追いかけているのと何やら関係ありそうだな…と。

あくまでも「神話の世界」なのですが、真偽は別にして(歴史はロマン!なので)
やはりこの辺りは古くから拓かれ、大和や伊勢と深い関係があって、
人々が盛んに往来していた「光景」が浮かんできそうです。

ではまた
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする