ロン・ハワード監督、トム・ハンクス主演、『ダ・ヴィンチ・コード』、Tジョイ久留米にて鑑賞。
正直な話、元々『ダ・ヴィンチ・コード』は鑑賞する予定ではありませんでした。
原作を未読だったということもありますし、主な映画レビューブログのほとんどが『ダ・ヴィンチ・コード』を取り上げていたので、自分の中のひねくれ者根性が頭をもたげて、いっそのことこのまま観るまいか、と思ったというのもあります。
それがなぜ鑑賞と相成ったかというと、日頃からお世話になっている小夏さんが「せぷさんの『ダ・ヴィンチ・コード』のレビュー、読んでみたいな♪」(←正確な引用ではありません。かなり脳内変換されてます。笑。)みたいな嬉しいことを言ってくれたので、これは観らねばなるまい、と思った次第です。
本作は銃で撃たれ重傷を負ったルーヴル美術館館長ソニエールがよろよろと歩きながら、着ているシャツのボタンを外しだすシーンから始まります。彼はルーヴル美術館のあちこちに難解で複雑な暗号を自らの血で書き残すと、スッポンポンとなった上で(ご丁寧に確か靴まで脱いでましたよね?)胸に六芒星(五芒星でしたっけ?)のサインまで描き記し、最終的に自分の体で有名なダ・ヴィンチの人体図を模して絶命するのです。
本作を観た人の半分ぐらいはこう思ったんじゃないですか?
それだけのことをする余力があるぐらいなら、さっさと救急車なり何なり助けを呼んだらどうだ、って。
ともかく、『ダ・ヴィンチ・コード』は映画史上最も手間が掛かって凝っている、言い換えると馬鹿馬鹿しくて到底ありえないダイイングメッセージによって幕を開ける作品といってよいでしょう(当然原作もそうなんでしょうが)。
馬鹿馬鹿しくてありえないといえば物語の肝であるイエス・キリストに妻や子供がいたという説ですが、自分はこれに関しては荒唐無稽だなんて思ってはいません。何しろ裏切り者の代名詞でもあるユダが実はキリストの一番弟子だった、という説もあれば(こちら)、実はイエス・キリストは黒人だった!という説まであるのですから(こちら)、今さら妻を娶っていたという説を聞かされても特別驚きはしません。
ただ、そこから先、イエス・キリストの子孫が現代にまで生き延びている(そしてそのことを自覚している)というのはありえないと思います。ぶっちゃけ、二千年前のご先祖様が誰だったか、正確に把握している人はいませんよね。二千年の間に何世代代替わりするのかはわかりませんが、それだけの時を経れば一家離散をすることもあれば、後継者としての務めを放棄するものも現れるでしょう、また子を為さないこともあったでしょうしね。
二千年もの長きに渡って一つの血筋が途切れることなく続く(そしてそれを第三者が正確に把握している)というのはありえない、そう思います。
何だかずいぶん否定的なコメントをしているようですが、作品そのものを否定するつもりはないんですよ。何しろ『ダ・ヴィンチ・コード』はハリウッド映画ですから。オープニングが馬鹿馬鹿しくてありえないのも、また物語の核である謎もこれに同様であっても、一向に構わないことだと思うんです。
そう考えると『ダ・ヴィンチ・コード』、実にハリウッド映画らしい映画ですよね。
登場人物を演じるのは当代切っての芸達者な役者ばかり、出てくるキャラクターが全員主人公たちの敵か裏切り者、主人公たちに次々と降りかかる危機また危機、それを自らの機転と僥倖ですり抜ける主人公たち、展開はツッコミどころ満載、そして何より、歴史上のイベントシーンがすべてイラストやアニメではなくて実写という豪華さ!!はっきりいってその実写シーンだけで通常の規模の作品であれば一本か二本、完成させることが出来たのでは、そう思っちゃいました。
『ダ・ヴィンチ・コード』、まさにこれぞハリウッド映画、といってよいのではないでしょうか。
カンヌ映画祭では失笑を買ったといわれる本作なのですが、自分は特に不出来だとは思いません。失笑した人はおそらく『ダ・ヴィンチ・コード』という作品を捉え損なっているのでしょう。高度に学術的な作品を期待したか、もしくはハリウッド映画らしからぬ、全体的に暗い、闇を基調とした重苦しい作品だとでも思い込んでいたのか。
原作は未読ですが、ロン・ハワード、まずはいい仕事をしていると思いました。違う監督に委ねられたとしてもこれ以上の作品には出来なかったでしょう。
最後に主人公のラングトン教授の髪型ですが、、、あれも別に自分は失笑しなかったことを付記しておきます。笑。
正直な話、元々『ダ・ヴィンチ・コード』は鑑賞する予定ではありませんでした。
原作を未読だったということもありますし、主な映画レビューブログのほとんどが『ダ・ヴィンチ・コード』を取り上げていたので、自分の中のひねくれ者根性が頭をもたげて、いっそのことこのまま観るまいか、と思ったというのもあります。
それがなぜ鑑賞と相成ったかというと、日頃からお世話になっている小夏さんが「せぷさんの『ダ・ヴィンチ・コード』のレビュー、読んでみたいな♪」(←正確な引用ではありません。かなり脳内変換されてます。笑。)みたいな嬉しいことを言ってくれたので、これは観らねばなるまい、と思った次第です。
本作は銃で撃たれ重傷を負ったルーヴル美術館館長ソニエールがよろよろと歩きながら、着ているシャツのボタンを外しだすシーンから始まります。彼はルーヴル美術館のあちこちに難解で複雑な暗号を自らの血で書き残すと、スッポンポンとなった上で(ご丁寧に確か靴まで脱いでましたよね?)胸に六芒星(五芒星でしたっけ?)のサインまで描き記し、最終的に自分の体で有名なダ・ヴィンチの人体図を模して絶命するのです。
本作を観た人の半分ぐらいはこう思ったんじゃないですか?
それだけのことをする余力があるぐらいなら、さっさと救急車なり何なり助けを呼んだらどうだ、って。
ともかく、『ダ・ヴィンチ・コード』は映画史上最も手間が掛かって凝っている、言い換えると馬鹿馬鹿しくて到底ありえないダイイングメッセージによって幕を開ける作品といってよいでしょう(当然原作もそうなんでしょうが)。
馬鹿馬鹿しくてありえないといえば物語の肝であるイエス・キリストに妻や子供がいたという説ですが、自分はこれに関しては荒唐無稽だなんて思ってはいません。何しろ裏切り者の代名詞でもあるユダが実はキリストの一番弟子だった、という説もあれば(こちら)、実はイエス・キリストは黒人だった!という説まであるのですから(こちら)、今さら妻を娶っていたという説を聞かされても特別驚きはしません。
ただ、そこから先、イエス・キリストの子孫が現代にまで生き延びている(そしてそのことを自覚している)というのはありえないと思います。ぶっちゃけ、二千年前のご先祖様が誰だったか、正確に把握している人はいませんよね。二千年の間に何世代代替わりするのかはわかりませんが、それだけの時を経れば一家離散をすることもあれば、後継者としての務めを放棄するものも現れるでしょう、また子を為さないこともあったでしょうしね。
二千年もの長きに渡って一つの血筋が途切れることなく続く(そしてそれを第三者が正確に把握している)というのはありえない、そう思います。
何だかずいぶん否定的なコメントをしているようですが、作品そのものを否定するつもりはないんですよ。何しろ『ダ・ヴィンチ・コード』はハリウッド映画ですから。オープニングが馬鹿馬鹿しくてありえないのも、また物語の核である謎もこれに同様であっても、一向に構わないことだと思うんです。
そう考えると『ダ・ヴィンチ・コード』、実にハリウッド映画らしい映画ですよね。
登場人物を演じるのは当代切っての芸達者な役者ばかり、出てくるキャラクターが全員主人公たちの敵か裏切り者、主人公たちに次々と降りかかる危機また危機、それを自らの機転と僥倖ですり抜ける主人公たち、展開はツッコミどころ満載、そして何より、歴史上のイベントシーンがすべてイラストやアニメではなくて実写という豪華さ!!はっきりいってその実写シーンだけで通常の規模の作品であれば一本か二本、完成させることが出来たのでは、そう思っちゃいました。
『ダ・ヴィンチ・コード』、まさにこれぞハリウッド映画、といってよいのではないでしょうか。
カンヌ映画祭では失笑を買ったといわれる本作なのですが、自分は特に不出来だとは思いません。失笑した人はおそらく『ダ・ヴィンチ・コード』という作品を捉え損なっているのでしょう。高度に学術的な作品を期待したか、もしくはハリウッド映画らしからぬ、全体的に暗い、闇を基調とした重苦しい作品だとでも思い込んでいたのか。
原作は未読ですが、ロン・ハワード、まずはいい仕事をしていると思いました。違う監督に委ねられたとしてもこれ以上の作品には出来なかったでしょう。
最後に主人公のラングトン教授の髪型ですが、、、あれも別に自分は失笑しなかったことを付記しておきます。笑。