コメントされたどなたからもツイッターのアドレスを教えていただけなかったので、こちらでまとめて反論させてもらうことにしました。
すべてのコメントに対応しているわけではありませんが、その点、ご容赦ください。
さる1/3、Uターンラッシュ中の東海道新幹線が有楽町駅前で起こった火災により著しい遅延が起こったため、車内にいた女性が老人や子供だけでも空いていたグリーン車に座らせることが出来ないかと車掌に提案して断られ、そのことをツイッターで呟いたところ炎上し、彼女は激しいバッシングを喰らいました。
結果的に彼女の判断は間違ってました。
別段誰かが極度の疲労の果てに死に至ったというわけでもなく、無理が祟って何かしら後遺症を負ったという話も聞きません。
彼女の判断ミスを指摘する声はすべて正しかったということになります。
しかしそれは結果をすべて知っているからこそ言えることです。結果だけを見て、その行為が正しいかどうかを判断するのは易しい。
しかし本当に公平に判断するためには結果だけでなく、経過も考慮に入れることが必要だと思います。
当時の車内の様子はどんな感じだったか。
すべて想像に頼るしかありませんが、少なくとも和気あいあいとした、のんびりとした雰囲気だったってことはないでしょう。
どちらかといえば、何時間も車内に閉じ込められ、乗客は皆苛立ってたと考えるのが自然です。ギリギリの状態だったとしてもおかしくありません。いや、実際ギリギリの状態だったのではないでしょうか。
なぜなら老人が座席に座っていなかったということは座っていた若い乗客が席を譲らなかったということになります。普段であれば笑顔で席を譲れても、このときはそうする気にはなれなかった。いつ列車が動き出すかわからない状況では、老人に席を譲れなかったとしても責めることは出来ません。
かなり車内の空気は殺伐としていたのでは、と想像します。
その状況で一人の女性がこのままでは体力のない老人が倒れてしまうのではないか、下手したら死人が出るかもしれないと考えた。そして自分に出来ることはないかと思案した。目の前には席がまったく埋まっていないグリーン車がある。そうだ、このガラガラのグリーン車に立っているお年寄りや子供たちだけでも座らせてもらったら?さぞかしナイスアイディアだと思ったことでしょう。
彼女のアイディアは実現しませんでしたが。
人は生きていく限り、様々な判断ミスを犯します。それはどうしたって避けられないことです。
なぜなら人は将来起こることのすべてを予期することなど出来ないのですから。
判断ミスには二種類あります。
一つは最悪なことなど起こりっこないと高を括って構えて、最悪なことが起こる場合。もう一つは最悪なことが起こるかもしれないという想定の元に行動し、実際は何も起こらない場合。
トピ主の場合は言うまでもなく後者です。
彼女の判断は間違っていた。
しかしそれは果たして責められることでしょうか。
自分はそうは思いません。
結果的に被害者は出なかった。だから彼女の判断は間違っていた。
けれど、拘束時間がより長引いていたとしたら?四時間が六時間、六時間が八時間、八時間が十二時間、拘束されたら?
いつしか限界は来るでしょう。それを越えていたら被害者が出ていたはずです。
あのとき彼女の提案に素直に従っていたら!と悔やむ状況になる可能性もゼロではなかった。
最悪な場合に備えて行動し、その判断が間違っていたとしても、自分はそれを責めるべきではないと考えます。
津波や地震などの震災を引き合いに出すのはおかしい、不謹慎だ、というご指摘も頂きました。
果たしてそうでしょうか。
自分はそうは思いません。
なぜなら、自分は件のトピ主が列車の遅延で面識のない人々のために行動したのであれば、災害時にはきっとボランティアとして誰よりも献身的に働くに違いないと思ったのです。一方、トピ主をバッシングしていた人たちはボランティアに参加しないだろうとも思いました。
もちろんそれは自分がツイートを見て、そう感じたにすぎず、事実は異なるかもしれません。バッシングをした人たちの中にも福島でボランティアに参加した人もいるかもしれない。
ともあれ、自分の中でそれは自然な流れでした。
件のトピ主をバッシングした人たちをクズ呼ばわりしたことも非難されました。
そのことに関しては少しばかり反省しています。
ただし、謝罪はしませんし、訂正もしません。
なぜなら先にトピ主をゴミ呼ばわりしたのはバッシングした人たちだからです。
自分は理由もなく相手を「クズ」だと罵ることはありません。あくまでトピ主をゴミ呼ばわりしたことを受けてのことです。
他人から罵倒されるとどんな気持ちになるか知って欲しかったからなのですが、そうする必要はなかったかもしれません。
ツイッターへの反論はブログではなくツイッターですべきだという意見も目にしました。
が、それは最初から考えていません。
理由は単純、自分がツイッターが不得手だからです。
文字制限があると言いたいことも上手く言えず(普段から言えてるわけではありませんが)、また必要以上に表現が乱暴になってしまいます。
ツイッターのアドレスを求めたのは自分なりの考えがあってのことです。
素直に応じる人は少ないだろうとは思ってましたが、まさかゼロとは思いませんでした。
アカウントを持っていないと申告した人もいましたが、全員持ってなかったのでしょうか?
アドレスを教えてくれた人にはちゃんと対応するつもりだったんですけどね。
だいたい言いたいことは言ったかな。
この記事のコメント欄も閉じたりはしませんし、コメントの削除をするつもりもありません。
コメントしたいという方はどうぞ自由にコメントしてください。
ただ、レスをつけるかどうかは定かではないです。ツイッターのアドレスを付記してあってもそれは同じです。
よろしくお願いします。
すべてのコメントに対応しているわけではありませんが、その点、ご容赦ください。
さる1/3、Uターンラッシュ中の東海道新幹線が有楽町駅前で起こった火災により著しい遅延が起こったため、車内にいた女性が老人や子供だけでも空いていたグリーン車に座らせることが出来ないかと車掌に提案して断られ、そのことをツイッターで呟いたところ炎上し、彼女は激しいバッシングを喰らいました。
結果的に彼女の判断は間違ってました。
別段誰かが極度の疲労の果てに死に至ったというわけでもなく、無理が祟って何かしら後遺症を負ったという話も聞きません。
彼女の判断ミスを指摘する声はすべて正しかったということになります。
しかしそれは結果をすべて知っているからこそ言えることです。結果だけを見て、その行為が正しいかどうかを判断するのは易しい。
しかし本当に公平に判断するためには結果だけでなく、経過も考慮に入れることが必要だと思います。
当時の車内の様子はどんな感じだったか。
すべて想像に頼るしかありませんが、少なくとも和気あいあいとした、のんびりとした雰囲気だったってことはないでしょう。
どちらかといえば、何時間も車内に閉じ込められ、乗客は皆苛立ってたと考えるのが自然です。ギリギリの状態だったとしてもおかしくありません。いや、実際ギリギリの状態だったのではないでしょうか。
なぜなら老人が座席に座っていなかったということは座っていた若い乗客が席を譲らなかったということになります。普段であれば笑顔で席を譲れても、このときはそうする気にはなれなかった。いつ列車が動き出すかわからない状況では、老人に席を譲れなかったとしても責めることは出来ません。
かなり車内の空気は殺伐としていたのでは、と想像します。
その状況で一人の女性がこのままでは体力のない老人が倒れてしまうのではないか、下手したら死人が出るかもしれないと考えた。そして自分に出来ることはないかと思案した。目の前には席がまったく埋まっていないグリーン車がある。そうだ、このガラガラのグリーン車に立っているお年寄りや子供たちだけでも座らせてもらったら?さぞかしナイスアイディアだと思ったことでしょう。
彼女のアイディアは実現しませんでしたが。
人は生きていく限り、様々な判断ミスを犯します。それはどうしたって避けられないことです。
なぜなら人は将来起こることのすべてを予期することなど出来ないのですから。
判断ミスには二種類あります。
一つは最悪なことなど起こりっこないと高を括って構えて、最悪なことが起こる場合。もう一つは最悪なことが起こるかもしれないという想定の元に行動し、実際は何も起こらない場合。
トピ主の場合は言うまでもなく後者です。
彼女の判断は間違っていた。
しかしそれは果たして責められることでしょうか。
自分はそうは思いません。
結果的に被害者は出なかった。だから彼女の判断は間違っていた。
けれど、拘束時間がより長引いていたとしたら?四時間が六時間、六時間が八時間、八時間が十二時間、拘束されたら?
いつしか限界は来るでしょう。それを越えていたら被害者が出ていたはずです。
あのとき彼女の提案に素直に従っていたら!と悔やむ状況になる可能性もゼロではなかった。
最悪な場合に備えて行動し、その判断が間違っていたとしても、自分はそれを責めるべきではないと考えます。
津波や地震などの震災を引き合いに出すのはおかしい、不謹慎だ、というご指摘も頂きました。
果たしてそうでしょうか。
自分はそうは思いません。
なぜなら、自分は件のトピ主が列車の遅延で面識のない人々のために行動したのであれば、災害時にはきっとボランティアとして誰よりも献身的に働くに違いないと思ったのです。一方、トピ主をバッシングしていた人たちはボランティアに参加しないだろうとも思いました。
もちろんそれは自分がツイートを見て、そう感じたにすぎず、事実は異なるかもしれません。バッシングをした人たちの中にも福島でボランティアに参加した人もいるかもしれない。
ともあれ、自分の中でそれは自然な流れでした。
件のトピ主をバッシングした人たちをクズ呼ばわりしたことも非難されました。
そのことに関しては少しばかり反省しています。
ただし、謝罪はしませんし、訂正もしません。
なぜなら先にトピ主をゴミ呼ばわりしたのはバッシングした人たちだからです。
自分は理由もなく相手を「クズ」だと罵ることはありません。あくまでトピ主をゴミ呼ばわりしたことを受けてのことです。
他人から罵倒されるとどんな気持ちになるか知って欲しかったからなのですが、そうする必要はなかったかもしれません。
ツイッターへの反論はブログではなくツイッターですべきだという意見も目にしました。
が、それは最初から考えていません。
理由は単純、自分がツイッターが不得手だからです。
文字制限があると言いたいことも上手く言えず(普段から言えてるわけではありませんが)、また必要以上に表現が乱暴になってしまいます。
ツイッターのアドレスを求めたのは自分なりの考えがあってのことです。
素直に応じる人は少ないだろうとは思ってましたが、まさかゼロとは思いませんでした。
アカウントを持っていないと申告した人もいましたが、全員持ってなかったのでしょうか?
アドレスを教えてくれた人にはちゃんと対応するつもりだったんですけどね。
だいたい言いたいことは言ったかな。
この記事のコメント欄も閉じたりはしませんし、コメントの削除をするつもりもありません。
コメントしたいという方はどうぞ自由にコメントしてください。
ただ、レスをつけるかどうかは定かではないです。ツイッターのアドレスを付記してあってもそれは同じです。
よろしくお願いします。