この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

初心者とそうでない方のための誤読しないための『ガタカ』講座、続き。

2021-07-09 13:39:08 | 旧作映画
 昨日の続きです。
 言いたいことはいろいろあるのです、言いたいことは。
 ただ、言いたいことをすべて言うとまた長大な文章になってしまうのでそれは避けたいのです。
 なので一番言いたいことを言います。
 アントンはヴィンセントの味方だった、ということです。
 何を言っている、ガタカでの再会時の二人の激しい言い合いと、その後の遠泳競争を見ていないのか、そう仰る方がいるかもしれませんね。
 もちろんそれらのシーンは見ています。
 見た上でアントンはヴィンセントの味方だった、と言っているのです。

 まず間違いなく言えるのは、アントンはヴィンセントの「宇宙飛行士になる」という夢を邪魔をするつもりはなかった、ということです。
 もし本当にアントンがヴィンセントの夢の成就を阻止するつもりであれば、夜の海での遠泳勝負などといった与太に付き合う必要はありません、単純に適当な罪状で一日か二日、交流すれば済むことです。
 彼はそれが出来る立場にありました。
 しかし遠泳勝負の前も後も彼はそうした行動に出ようとはしませんでした。
 アントンは兄の夢の邪魔をするつもりなどなかった、むしろ応援していたのです。

 考えてもみてください。
 アントンは生まれた時からヴィンセントと一緒に育ってきました。
 ヴィンセントの「宇宙飛行士になる」という夢を初めて知ったのもおそらくはアントンです。
 そのアントンが10年後に再会した兄が「宇宙飛行士になる」という夢の成就まであと一歩のところにいるのを目の当たりにして、それを阻止してやろうなどと本気で思うでしょうか?
 応援したいと思うのが自然ではないでしょうか。

 ではなぜアントンは遠泳競争に応じたのか?
 自分はヴィンセントの一度目の遠泳競争の勝利もアントンが故意に負けたのだと見ています。
 遠泳競争に勝利した事でヴィンセントの中で何が変わったのでしょう?
 ヴィンセントは遠泳競争に勝利した事でこう思ったのではないか。
 例え「神の子」であっても可能性が閉ざされたわけではない、と。
 わかりやすく言えば自信を持ったのですね。
 そして出奔した。

 10年後、失踪していたヴィンセントに再会したアントンがひどく憔悴した彼を勇気づけたい、励ましたいと思ったらどうするのか?
 凡百のドラマであれば「凄いじゃないか、兄さん、夢だった宇宙飛行士まであと一歩じゃないか」、そう言って励ますでしょう。
 しかし『ガタカ』であれば、それが違うのです。
 兄さんが宇宙飛行士になれるわけがない。それを証明してみせる。遠泳競争で勝負だ、というふうに。
 そしてアントンが遠泳競争で負ければヴィンセントは自信を取り戻すでしょう。

 すべてはお前の想像ではないか、と仰る方もきっといるでしょう。
 しかし自分も根拠もなくそう言っているのではないのです。
 まず一つ目の根拠はヴィンセントが勝利した一度目と二度目の遠泳競争が酷似している点です。
 まるで当事者による再現フィルムでも見ているようです。
 これが偶然というふうには思えません。

 もう一つの根拠はアントンが泳ぎが達者であった、と思われることです。
 ほんのワンシーンですが、アントンがプールで泳いでいるシーンがあります(正確にはプールから上がるシーンがあります)。
 殺人事件の捜査中であるにもかかわらずプールで泳いでいるのですから、アントンは時間があればプールに泳ぎに来ているのでしょう。
 時間があればプールに泳ぎに来る男が泳ぎが不得意である、とは考えにくいです。
 アントンは泳ぎが達者であった、そう考えるべきでしょう。
 泳ぎが得意であった男が10年ぶりに再会した兄との遠泳競争で無様に負けて、溺れるなんてことがあるのかどうか?
 自分は非常に考えにくいと思います。

 今挙げたような理由で自分はアントンがヴィンセントの「宇宙飛行士になる」という夢の理解者であった、と考えます。
 ここまで根拠を挙げてもアントンが理解者であったという説に賛同出来ない人は賛同出来ないでしょう。

 ただ、登場人物の心情を想像しながら物語を読み進めていくことは『ガタカ』に限らず、誤読を減らすための一つのやり方ではないかと自分は考えます。
 すべての物語においてそのような読み方をするのは難しいかと思いますが、特別に好きな物語ぐらいはそう読んでみては如何でしょうか。
コメント
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