団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

友の死に際して

2009-12-10 11:23:05 | Weblog
 また高校時代の友が亡くなった。癌である。
 私はさほど親しい関係ではなかったが、小中高一緒という友人から、すっかり落ち込んでいる、とメールが来ていた。まさに親友であったのだろう。
 名古屋の高校を出て、東京に来ている同期の仲間がかつて100人ぐらいいた。名古屋で就職して東京に転勤になって働き、定年ですでに故郷に帰った者もいるが、最近の同期会には15~25人ぐらいは顔を揃える。
 私は欠席したが、ある時、名古屋で盛大な同期会が開かれた。プロジェクターで亡くなった同期の顔写真を写した。愕然とした。親しくしていた友人が4人もいた。その後ひとり加わり、また今回の死である。
 還暦を過ぎ、61歳になり、さらに齢を重ねてゆく。頼れるものは伴侶や家族であろうが、かけがえのない友人の存在もまた勇気づけてくれる。
 たぶん、これからも徐々にあちらへ向かう友人が増えていこう。それなら、少しでも会う機会を作り、お互いの元気な顔を見たいものである。
 しかし、一度は参加したものの、それ以降はまったく出て来ない者もいるし、ある時を境にプッツリと縁を切ったかのような者もいる。
 人はさまざまであるし、仲間の集いの参加に強制できるものではないが、思い出を共有している者同士が時を隔てた会話をするのは、人生のひとつの愉しみである。
 いずれ、そういう気になってくれることを待つしかないが、それでも最近思うことは、長く生きてきたなあ、という感慨である。
 光陰矢のごとし、という喩えはあるが、ひとつひとつの記憶をたどっていくと、やはり思い出は膨大な量になっている。
 最近、母親が認知症になり、遠方に移り住んだ。その際に住まいを片付けたが、古い写真なども出てきて、見入っていると、そこに自分の人生が凝縮されていることがしみじみと分かる。
 かくも長く生きてきた、しかし、これからもまだまだ生きなければならない、という当たり前のことを思う。我々より高齢の方々は、その思いをもっと強く抱き歩んでいることだろう。
 人は死に方を選べないが、生き方は選ぶことができる。選ぶだけの元気があるうちが花である。
 先に行った友に合掌である。さらばであるが、また逢おう。

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