きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

確かに与えられるものではないが

2018-04-14 16:54:26 | 徒然に2018-2020
勝ち取るものかと言われると、どうだろう。

ぼおっとしていては得られないが、勝ち取るということばとはちょっと違うようにも思う。平和に勝ち取るだから違和感があるだけなのか、よく分からない。
ただ確かに、与えられるものではなくて、そのための努力は必要だと思う。
いくら防大とはいえ卒業式の訓辞として、平和は勝ち取るものだというのを、いわば上に立つ者が言ってのけることそのものにも問題が無いわけではないように思うのだが。

歯切れ悪。
平和とは、維持するべきもので、その状態に持っていくために作り上げるという活動が必要なのではないか。ただ、作り上げるといっても手間がかかるしすぐにはできない。何より抽象的で方法が広がりすぎて現実的にどうなのだろうということになりがちで。
そういうときに、具体的で短期的な見方として勝ち取るという発想が出てくるのではないか。その場合、勝ち取るという行為には勝ち取られるという現象は存在しないのだろうか。それは即ち漢字の通り勝敗であり、平和という概念からはかけ離れたような印象を受ける。踏み込めば、そこにあるものを奪うという行為に近い。変な言い方だが、ゼロから作るよりあるものを奪う方が達成しやすい。だから違和感があるのかもしれない。

閑話休題。
ネットで本田圭佑の63文字の「人生論」を見る。シンプルでいい。儂は好き。で、いろいろなことを経て行き着いた今の儂の「人生訓」はと考えてみる。障がいとは(生きるとは)ということで46文字。

希望は持たず期待せずただ過剰に悲観することもない。そして、不幸でもなく不便でもなくただ面倒くさい。

障がいがいよいよ一般論でなく、関わる一個人でなく当事者となった以上、それは生きるということとイコールになる。そして、生きることとはただ生きるということで、その個だけでなく個に関わる環境も含め、希望や期待といった雑念を抱くと結構きついということが分かってきた。ただ救いなのは何とかなるということだと思う。
不幸ではなく不便であると誰かが言ったが、不便というより面倒である。
希望も便利さも与えられるものではない。獲得すべきものかもしれないがただそこにあることがあるということだと。
うまくまとまらないが入院期間を通して一応納得できるところに来たのでメモしておく。