きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

伏線は否定するが

2018-04-15 09:09:37 | 脊髄内血管腫との邂逅
転院して間もなくの時期に打った原稿である。恐らく12月の初めぐらいか。推敲できていないが退院を間近に控えたこの時期に敢えてそのまま投稿してみる。

今はリハと自主訓練が中心なのでそうでもないが、転院してからの間もなくの時期は小説を読むペースが上がった。その少し前の時期、つまり前の病院にいるときは活字はそこそこ目にしていたががっつり小説という感じではなく、どうしてもそれができなかったのが不思議ではある。小説が読める精神状態というか、活字が入る精神状態になったというのは少しは落ち着いて来たんだろうか単なる暇つぶしなんだろうか。よく分からないが、
小説には多くの場合伏線がある。それがどういう形で話の中に張られていたかが途中で分かったり後で知ったりする。
で、やはりその張られ方が「上手い」なあと素直に感心したりして。で、現実は小説より奇なりというが、儂の場合もつくづくそうかもしれないと思うこともある。
3年前に思いついて大がかりな断捨離をして、その直後に原付に後ろから突っ込まれて側頭骨と前頭骨と眼窩を骨折して入院、手術。入院中はいろいろ思うことがあったが、まあ結果的には今回のに比べると全く大ごとではなかったということにはなる。
仕事に関してはまだ10年残していながらいろいろなことに行き詰まりを感じていたのは事実で、無理矢理理由付けをすれば、何かが起こってリセットしないと持たないのではという気もしていた。だから、インターバル期間を得たという見方はできるかもしれない。それでも、諦めたことや投げ出さざるを得なかったこと、失ったモノはいろいろある。収入も何もかも含めて将来の不安も生じるから、行き詰まりの代償にしては大きすぎ、割には合わないのだが。

走り始めたのが30台も後半になってからで、程なくして単にいろいろなところを走るだけでなく、走りながらいろいろ思うことが増えてくる。そしていろいろなことを振り返りながら走るようになった。重松清の「その日の前に」には、登場人物が、余命を知った登場人物が思い出の場所を巡る話が3つ出てくる。それを読んでいくうちに、もろ儂の思い出探訪ランと同じじゃないかと。彼らはもうすぐ行けなくなるというその日があるから、わざわざその街を訪れる。逆に言えばそれがなければ、訪れることはない。そこそこそういうランを繰り返すようになった後でこういうことになったが、知らず知らずのうちにそうしていたのならそれはそれで面白い。

今回のこと、何で儂が、と思ったことは不思議とない。脊髄腫瘍自体が10万分の1の確率なら、たまたまその1が儂だったというだけのことなのだろうと。結局は単にそういう事実だけが残る。決して感情は穏やかではなかったが、その辺りの認識はぶれなかったから最後まで持ったのかもしれないということは思う。

にしても、小説の展開は伏線に懲りすぎて分かりづらいものも散見される。儂などは読み慣れていないからか余計にである。こういう感じで図示できれば分かりやすいが。
このブログがわかりにくいのは自分の覚え書きがメインなので。こちらは御容赦を。