きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

一気に20年とか30年ぐらい

2019-01-01 07:26:54 | 脊髄内血管腫との邂逅
歳を取ったということなのだろう。最近、そういうことを考えている。

正直、車椅子になって、今まで普通にできていたことが時間がかかったりできなくなったりして、気が滅入ることが多い。
それに、今までなら忙しくて何かをするとかしなければならないとかそういうことの連続で時間に追われながら日々過ごしていたのが、どちらかというと、ただ、ただ、時間の過ぎるのを待つみたいなことも随分増えたように思う。
行為そのものに充実感がないというか非生産的というか、もっと端的に云うと、時間を潰すかのように生きている感じがするときも確かにある。
下り坂の如しで、普通は歳を取るとこういうことが少しずつ現れてきて、それに折り合いをつけながら過ごしていくのだろう。儂の場合は、それが突然一気に来たというか。20年とか30年ぐらい。
そういうことなのだろうと。

かなり前、新聞で見た「はるかぜちゃん」の記事。
生きると云うことに前向きになれないときがある。自分は自分でしかないといいながら、それでももう自分は自分の範疇で収まりきれるものではなく、他者の存在や関係性の中で生かされているというのが恐らく真実。
それにしても。
もうここまで達観している彼女はこの先どこへ行くのだろうと、余計なことを考える。

赤ちゃんは、初めて吸った空気の一部を肺に残す、ということを聞いたことがある。死ぬときに深い最後の呼吸で吐き出す。これ、実は全く逆の説もあった(赤ちゃんが泣く=吐く、故に死ぬときは息を「引き取る」)が、しっくりとはこない。
やはり、死ぬときは吐き出して死ぬのが良い。

一気に年寄りにはなったが、自分で身の回りの始末ができなくなるまでにはまだ猶予があると思う。その間に、潰しているような時間を何とかもう少し生産的にできないものかと、そういうことを考えている。