きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

伏線は否定するが

2018-04-15 09:09:37 | 脊髄内血管腫との邂逅
転院して間もなくの時期に打った原稿である。恐らく12月の初めぐらいか。推敲できていないが退院を間近に控えたこの時期に敢えてそのまま投稿してみる。

今はリハと自主訓練が中心なのでそうでもないが、転院してからの間もなくの時期は小説を読むペースが上がった。その少し前の時期、つまり前の病院にいるときは活字はそこそこ目にしていたががっつり小説という感じではなく、どうしてもそれができなかったのが不思議ではある。小説が読める精神状態というか、活字が入る精神状態になったというのは少しは落ち着いて来たんだろうか単なる暇つぶしなんだろうか。よく分からないが、
小説には多くの場合伏線がある。それがどういう形で話の中に張られていたかが途中で分かったり後で知ったりする。
で、やはりその張られ方が「上手い」なあと素直に感心したりして。で、現実は小説より奇なりというが、儂の場合もつくづくそうかもしれないと思うこともある。
3年前に思いついて大がかりな断捨離をして、その直後に原付に後ろから突っ込まれて側頭骨と前頭骨と眼窩を骨折して入院、手術。入院中はいろいろ思うことがあったが、まあ結果的には今回のに比べると全く大ごとではなかったということにはなる。
仕事に関してはまだ10年残していながらいろいろなことに行き詰まりを感じていたのは事実で、無理矢理理由付けをすれば、何かが起こってリセットしないと持たないのではという気もしていた。だから、インターバル期間を得たという見方はできるかもしれない。それでも、諦めたことや投げ出さざるを得なかったこと、失ったモノはいろいろある。収入も何もかも含めて将来の不安も生じるから、行き詰まりの代償にしては大きすぎ、割には合わないのだが。

走り始めたのが30台も後半になってからで、程なくして単にいろいろなところを走るだけでなく、走りながらいろいろ思うことが増えてくる。そしていろいろなことを振り返りながら走るようになった。重松清の「その日の前に」には、登場人物が、余命を知った登場人物が思い出の場所を巡る話が3つ出てくる。それを読んでいくうちに、もろ儂の思い出探訪ランと同じじゃないかと。彼らはもうすぐ行けなくなるというその日があるから、わざわざその街を訪れる。逆に言えばそれがなければ、訪れることはない。そこそこそういうランを繰り返すようになった後でこういうことになったが、知らず知らずのうちにそうしていたのならそれはそれで面白い。

今回のこと、何で儂が、と思ったことは不思議とない。脊髄腫瘍自体が10万分の1の確率なら、たまたまその1が儂だったというだけのことなのだろうと。結局は単にそういう事実だけが残る。決して感情は穏やかではなかったが、その辺りの認識はぶれなかったから最後まで持ったのかもしれないということは思う。

にしても、小説の展開は伏線に懲りすぎて分かりづらいものも散見される。儂などは読み慣れていないからか余計にである。こういう感じで図示できれば分かりやすいが。
このブログがわかりにくいのは自分の覚え書きがメインなので。こちらは御容赦を。

確かに与えられるものではないが

2018-04-14 16:54:26 | 徒然に2018-2020
勝ち取るものかと言われると、どうだろう。

ぼおっとしていては得られないが、勝ち取るということばとはちょっと違うようにも思う。平和に勝ち取るだから違和感があるだけなのか、よく分からない。
ただ確かに、与えられるものではなくて、そのための努力は必要だと思う。
いくら防大とはいえ卒業式の訓辞として、平和は勝ち取るものだというのを、いわば上に立つ者が言ってのけることそのものにも問題が無いわけではないように思うのだが。

歯切れ悪。
平和とは、維持するべきもので、その状態に持っていくために作り上げるという活動が必要なのではないか。ただ、作り上げるといっても手間がかかるしすぐにはできない。何より抽象的で方法が広がりすぎて現実的にどうなのだろうということになりがちで。
そういうときに、具体的で短期的な見方として勝ち取るという発想が出てくるのではないか。その場合、勝ち取るという行為には勝ち取られるという現象は存在しないのだろうか。それは即ち漢字の通り勝敗であり、平和という概念からはかけ離れたような印象を受ける。踏み込めば、そこにあるものを奪うという行為に近い。変な言い方だが、ゼロから作るよりあるものを奪う方が達成しやすい。だから違和感があるのかもしれない。

閑話休題。
ネットで本田圭佑の63文字の「人生論」を見る。シンプルでいい。儂は好き。で、いろいろなことを経て行き着いた今の儂の「人生訓」はと考えてみる。障がいとは(生きるとは)ということで46文字。

希望は持たず期待せずただ過剰に悲観することもない。そして、不幸でもなく不便でもなくただ面倒くさい。

障がいがいよいよ一般論でなく、関わる一個人でなく当事者となった以上、それは生きるということとイコールになる。そして、生きることとはただ生きるということで、その個だけでなく個に関わる環境も含め、希望や期待といった雑念を抱くと結構きついということが分かってきた。ただ救いなのは何とかなるということだと思う。
不幸ではなく不便であると誰かが言ったが、不便というより面倒である。
希望も便利さも与えられるものではない。獲得すべきものかもしれないがただそこにあることがあるということだと。
うまくまとまらないが入院期間を通して一応納得できるところに来たのでメモしておく。

そして、ただいま

2018-04-12 16:09:07 | 徒然に2018-2020
昨日がリハ最終日そして最後のリハ庭。

同室の方が漕ぎ始めていた。


紅白のハナミズキでお見送りを受けた。

荷物の片付けやらお世話になった方へのお礼も済ませた。久々のタリーズ。

そして、朝。

最後の最後にもう一度周回。外出も含めると計1201キロ。ツツジが咲き始めたのを発見。そして。

ありがとう。ただいま。

はやおくり

2018-04-11 06:15:38 | 脊髄内血管腫との邂逅
気分的に膠着状態の昨今。これまでの先の見えないとか先が長いとかそういう状態のときとはまた別の怠さ。3月の日曜日は所用をこなすための外出が増えたが、そのついでによく外を漕いだ。これも自主訓練の一環ということで。

その1。日がまだ高いので自宅を出て川へ行くことに。

川までまだまだだが、支援学校前の桜に思わず止まる。五分かそれ以上か。

なおも漕ぎ続け、漸く郊外電車の終点駅近くから川へ。この坂は急すぎるので回避して県道へ。裏道はこういう急勾配が多い。

ようやく河原へ。

降りるまでの急な勾配に逡巡するが、結局降りる。

満開まではまだまだだが、楽しめた。因みに、来るときに躊躇った坂のところで近くの方が車椅子を押してくれた。ありがとうございました。

その2。昼過ぎに自宅に向かう予定で出発。

病院近くの川もいい感じの桜。

と、何に誘われたか自宅とは逆方向に。

遠くの桜はお花見。

自転車道を一旦離れて一般道で川を越える。こちらは黄色。

近くの桜もお花見。

とりあえず行くところまで行く。疲れたのは最初の2時間ぐらい。前回に比べて何故か時間がかかったが、坊ちゃんスタジアム横の桜が遠くに見える頃には何とか回復。

踏切を越えて更に西へ。前回と反対側へ行こうと橋を渡っていると桜が。これは計算外。

河口に近付くにつれ再び桜。桜を見るつもりはなくてむしろ海を見に行こうと思ったのだが案外桜は此処彼処にあるらしい。

久々の右岸の0キロポイント。原点回帰の気持ちで。

この後、今出の港を見ながら伊予鉄の駅に向かう。20キロぐらいを4時間余り。駅に向かう途中でコンビニを梯子する。翌日は疲労度全開でリハビリに苦労した。

その3
それまでの陽気から一転して冬に戻った日。強い西風に負けて予定とは逆向きに。

兎に角寒かった。冬用のジャケットを用意して正解だった。

あるはずの桜はなくなっていて。

桜は昨日の雨で散ってしまったようで。

それでも少しは残っていた。

帰りは強い向かい風に負けて電車に乗り途中道草して、これ以上外には出れなかったか。漕走は約2時間半で13キロほど。そんな日。

その4
市内を経由して職場へ。

暫く見ないうちになくなった店があちこちに。

初めて見る市内電車に思わず。

毎年確認するかのように眺めていた桜は散っていた。

用事を済ませてから海までもう一踏ん張り。キミは前にもいた猫では?

もう一つのゴール。

退院を前にして、もどかしくてのたうち回りそうになっていたあるとき、リハの先生が、大変ですが明日は外出で(気分は)「早送り」みたいな感じになりますから(もう少し頑張りましょう)、とそんな励ましをしてくれたことがあった。
桜が思いの外早く散ったのも正に早送りかと、そんな気がした。

病室の窓から

2018-04-10 10:30:54 | 脊髄内血管腫との邂逅
途中、部屋替えがあったとはいえ、約5ヶ月この景色を見続けた訳で。

入院して10日目の朝。鱗雲に思わず見とれる。

これは初日の出。病室で迎えたなあと。


まだまだ(寒さも気持ちも)厳しい1月。冬の空はやはり冬の感じが目一杯する。

2月13日の夜明け前。

これも。そして。

2月13日の夕方。この日は何があったんだろうか。転院して3ヶ月。まだ残り2ヶ月。

椿さんの前あたり。まだ寒い。

3月の日曜日。お天気が良い気温も上がった。

その翌日。まさか豪雨で「ホワイトアウト」になるとは。

残り30日を切る。6時過ぎやや寝坊。空が明るい。

西の空。明日は晴れるかな、という気分で。

かりずまい

2018-04-09 17:25:28 | 脊髄内血管腫との邂逅
病室は四人の相部屋で、途中1月に部屋替えはしたものの、ここで5ヶ月過ごした。

これは同室の方が退院してから撮影したものだが、大体こんな感じである。儂の場合はテレビなしの台になる(因みにテレビは有料)。

テレビの代わりに必要だったのがPC。ネットショッピング買い物をするときとかだけ、スマホでテザリングしたが、セキュリティのないフリーの無線ランが使えたので普段はそれを使った。転院前のK病院のときは動画でニュースとか結構見ていたが、ここに来てからは動画はあまり見なかった。制約はあるものの、行動範囲が広がったのことは大いに関係があると思う。

もう一つの机(書見台というかチェストというか)には、薬や導尿の道具、歯ブラシ等とリハの日程を書くクリアファイルが置かれていた。リハの日程は毎日リハの先生がやってきて手書きで記入。リハの日程を決めるのもすべて「人力」だから、この規模の病院にしてはあまり効率的ではないが、それでも大きなトラブルがない(ように感じた)のが凄い。

チェストの中は、上段が着替えと入院関係の書類、そして爪切りとかはさみとか補聴器の電池とか細々したもの。下段はオムツと入浴時のシャンプーなど。洗濯物はその都度ヨメさんに持って帰って貰った。前のK病院のときは病衣着用だったが入浴時のタオルは選択する必要があった。ということで計7ヶ月間有り難う。PCを置いた方には、鍵かかかる引き出しがあって、そこには貴重品を入れ、その下の扉がある棚には珈琲とかおやつとか。前のK病院と違い、間食は相当した。しないとやってられんかった正直。

ベッドの横には、洗濯物を入れるボックスと椅子にもなる収納缶。この二つも重宝した。

特に希望はしなかったが、窓際のスペースが得られて正直有り難かった。
勿論、外に対する希求は9階の病棟から全く出入りができなかったK病院のときの方が強かった。それでも、天気が悪くても、外が見れた方が自分には良かった。外の景色を見ながら明日のことを考える日が続いた。

長い寄り道

2018-04-08 17:54:00 | 脊髄内血管腫との邂逅
退院前なのにとは思うが、ストイックにする理由はない。職場に用事ついでに海まで漕ぐ。
外出時の寄り道が多いことよりも、20キロ行かずに偉そうに惚けることの方が問題かもなと想いつつ。

20キロ行かんかった割には長い間呆けていた。
退院前なのにここまでの風景に出会えて気が引けるというのも確かにあるが、ちゃんとリハはやっているし、あくまで寄り道の範疇ということで御了承を。

今日O先生ラスト。5ヶ月もの長期に渡りありがとうございました。いつも身体を動かしている立場からの訓練や課題設定が有難かったです。感謝。

三江線一部だけトレースしてみた

2018-04-07 19:27:49 | 遠くへ~少しだけ非日常
去年の秋。
三江線トレッキングって云うイベントがあったらしい。丁度国体ボラと重なり断念せざるを得なかったのだが。この三江線は、今年の3月に廃線になるとかで是非行きたくて。で、走れなくても全部乗っても良いやというぐらいに思っていたのに、やっぱ走りたい、ということになって。で、石見銀山の翌日決行する日程に。

早くに寝たわけではないが、結構夜中から目が冴えて。で、30分以上前にチェックアウト。
昨日買い出したコンビニで、何を買うか迷う。900ミリのジュース(スポドリではない)と、卵サンドとチョコクロ。腹は減っていたようで。で、待ち時間の駅で卵の方を食う。
ベンチで寝ている人2名。ここは夜中に入れるようで。ふーん。今なら風邪引く感じでもないし。まあ蚊には食われるだろうが。

駅員さんに「うつい」まで行きたいというが、そこまでは買えないらしいので、電車の車掌さんに言ってくださいと云われ、その通りに購入。後で乗ったらワンマンでキップは必要がなかったのかもしれない。

江津で乗り換える。綺麗な電車の向こう、3番線。
三江線を走るディーゼル。
やはり朝、江津に泊まっていた人はよく見えそうな席とかボックスに陣取っていて、で、一人旅の方々や、浜田からの乗り換え客は、儂のように長いす席で。この点に限れば、江津でホテルが取れなかったのは残念。
来春廃線になるというのもあるのだろうが、駅に泊まる度に、景色が開ける度に、車内をスマホや一眼持った人が移動する。気持ちは分かる。

出発してしばらくは、中国(地方じゃなくて国の方ね)の川を上っている感じ。確かにこの川、標高差があまりないので流れは緩やか。
儂はと云うと、車内では、景色を見ながらぼんやりと。朝から呑んでも全く問題なかったが、持ち前の貧乏性で、少しは走ってみたいということで、それでも途中まで2時間余り。

なんで「うつい」で降りることにしたのかというと、ここから先が、島根と広島の県境を云ったり来たりする感じで面白そうだったからで、この駅自体のことは全く事前リサーチしていなくて。で、云われて降りたら、ものすごい高さの駅でびっくり。

こんな感じで高いところから周りがよく見える。


汽車を見送り、百段あまりの階段を下りる。

駅を見上げる。もう大当たりやな。
で、ここからしばらく、三江線のそばを走る。線路を走るわけにはいかんので、そこはほどほどの距離感を持って。

山奥に来たなあと云う感じがするものの、標高は100メートル余り。で、川を遡る感じで走るのに標高差があまり変わらない。くんっと変わるのは20キロぐらいたってから三江線を離れて高速バスのバス停を目指してショートカットしたとき。

で広島県へ。

2時間汽車に乗っていて充分だったが、時間はまだ8時半ぐらい。今日はこの後、高速バスの時間まで。ゆっくりゆっくりと行きたいが、さて。

このトラスト橋は、汽車は上を走るとのこと。


次の駅を目指す。

駅を一つ一つクリアする走り方。
身体はそんなに動く方ではない。ただ景色があるので苦ではない。

向こう側が島根県。やや狭そうで、あっちはどうなんだろうかと思いながら走る。
そもそも今回は、石見銀山の方を走る計画でこちらは走る予定ではなかった。でも十月の末の「えひめ大会」の時に全線走破(100キロ以上)のマラニックのイベントがあって、いいなあいきたいなあ(その日はボラが入っている)と思うようになり、なら、一部でもいいから走ってみるかと云うことで。

一人で全線走るには、泊まるとことかの勝手が分からんし(恐らく途中で「普通に」泊まるホテルはない)。2泊はさすがにできんし。こういうのだけはイベントに参加せんといかんのじゃないかと(岩国みたいに)。でも、部分だけなら充分走れるし。

で、予定していたところで再び島根県側へ。ところが、落石の関係で通れないらしい。
割合、通れないと云われても行くんですが(以前これでえらい目にあった)、今回は具体的になんとかさん家からなんとかさん家の区間、とかそういうことがかいてあったので止め。

再び戻って国道を。

せめて国道脇の旧道をと思ったがここも封鎖。
まあ景色は穏やかで、何より音を感じない。

標高はそれほど高くない。

川の流れも空気の流れもゆるゆると。時間の流れも。

で、ここで渡ろうと思ったが、ちょっと腹具合が怪しい。もう少し先の「川の駅」にトイレがあればいいがと念じつつ、橋をパス。

さっきの島根に行く橋のところで表示を見ておいて助かった。それらしい名前だったので。

この夏、自販機限定ということで気になっていたライチを買う。失敗。ゲップがライチで気分が悪い。おまけにカロリーオフでもないし。まあいいか。

で、島根県側へ。ここから再び広島県入りを目指す。

作木は広島側の地名。でもこことこのバスは島根。

道が狭くなって、どきどきする。夏の山道は何が出てくるか分からんから余り狭いのは選ばない。

しかし、いい。

右手に三江線の線路、左手に江の川。その間の細道を行く。今日のハイライト、やねえ。

地図上は、ここで広島県。


線路の傍を右左。イベントではこういうところを走るのだろう。こういうところばかりではないのかもしれんが。
来といて良かった。

開けたところに出る。

三江線の線路に合わせて、安芸高田から三次へ。

踏切を渡る。

家がそこそこある。写真にはないが白壁ではなく土色の蔵(?)が珍しかった。


で、江の川は、この予定していたところまで。帰りのフェリーのことがある。

ここから高速バスのバス停へ。吉川。自販機がいいところにあったが、欲しい物がないので、パス。しかしこれが失敗。

踏切を渡る。後鳥羽上皇をパス。

いきなりぐんっと上ったと思ったら結構続いた。毛利輝元は、どれぐらいあるのか分からんのでこれもパス。まあこれは仕方がない。残り時間が割合読めない。この坂と刻むペースと。

ここはここで景色は悪くなかったが、兎に角まだ上るかみたいな感じで。暑いし水分切らしているし。ようやく周りに高い物がなくなって峠を越す。越したらそんなに距離は遠くない。

ただこの辺り、しんどくて「あと少し」じゃなくて「あと一つ」を唄っていた。走りながら。本当にしんどくてやられていた。

で、本当にふと右を向いたときに、精米器のそばの自販機があって。こんなところに何故精米器がというぐらい周りに何もないところ。

で、「野汁」。なんでこれにしたんかねえ。

で、復活。降りる。

やれやれ。

で、10分か15分か。自販機見つける。ヤマザキの安いのもあるよ種類が揃っているよみたいな。まあ、こういうのは必要なときでないと必要ではないから。

で、少し行くと、チェックしておいたエーコープ。バス停近くには何もないようだったので、まだ2キロ以上あるが、ここで麦を買う。持ってきた保温バッグに入れて出発。氷があればいいんだが流石にないようで。重くなるが、今回はウエストポーチではないので、そこまで走りにくくはない。写真撮るのを忘れる。遠くに見えるかな。

バス停の場所は、キョリ測とグーグルマップでは違っている。このため、時間的に余裕が欲しかったということ。

先にキョリ測の方へ。

はずれ。

次にグーグルマップ。

アタリ。

着いた。20分ぐらいあるので、1本。

で時間になっても来ないので、ん、となっていたらバスターミナル行きが通過してしまったので、あら満席でとばされたのかもう30分待たねばと思い。2本目を空ける。すると5分ぐらいしてお目当てのが到着。さっきのは別の路線だった。早とちり。やはり呑むと判断力は鈍る。で、バスで、3本目。でこの後、駅での乗り換えとか5分なくてぎりぎりのタイミングでいつもの呉へ、なった。

結構な巨編になる予定が最後はいつもの如くどたばただった。が、予定通り帰れた。本当は三次の方が古くからの街でそのまま行っても良かったんだろうが、これはいつもの如く後で分かったこと。
奇しくも、旅ランはこれが一応の最後になった。そんなこと、この時点では知ってるわけもなく。
でも、最後に相応しいランだった。

介助なしではいかんらしい

2018-04-06 08:14:17 | 脊髄内血管腫との邂逅
ある記事を見つけて問い合わせるも。

車椅子マラソンでそこそこの距離を漕ぐ大会はレース用車椅子を対象としているものが多くて、所謂いつも使う車椅子での参加が可能なものはなかなか見あたらなくて。
で、ウォーキングなら大丈夫かこれ結構歩く(40キロ以上)し制限時間も歩く人用になっているし(現在の儂の漕ぐペースではギリギリなのだが)と思って。
丁寧に対応していただいたが、参加はしてもいいが、やはり介助なしではいかんらしい。やはりアップダウンが歩くようにはいかんからか。これも一つのバリアだという気もする。
残念だが、もっともっと調べていかないかんなと。

丁度テスト前の心境

2018-04-05 10:23:46 | 脊髄内血管腫との邂逅
実はスランプ。退院カウントダウンの手前からモチベーションが今ひとつになって、以前より一日一日を喘ぎ喘ぎ過ごしている感じ。

リハは何とか集中してやっているが、朝の自主トレ(立位でのストレッチ)は休みがちで、合間に行うリハ庭漕走も何とか最低限。では他に何をするのかと言われても何をするでもなくただ時間が過ぎるのを待っている感じ(間食の量が・・・)。

天気はいい。朝日と夕日を眺めつつ過ごす。ただ、気持ちの上でなかなかきついもんがある。丁度受験前とかにもうどっちでもいいから兎に角早く終わってくれいみたいな気分になっていたのに近いか。根詰めてコツコツ準備してきたものの、直前になって・・・という感じ。それでも先の見えないしんどさが常にあった10月辺りに比べればまだマシなのは確かで。

いよいよ桜が散りにかかる。今日は漕走も朝やった後は未定である。
この疲れは日焼けだけのせいでもないように思う。

ラン後の補給~自宅にて

2018-04-04 08:08:16 | 徒然に2018-2020
家呑みは、つまみの種類と量が外呑み(ラン後の補給~外出先にて:2月4日投稿)と異なる。要は食べ過ぎやすい。



どちらかといえばヘルシーなもの。



値段が高いとか珍しいとか。

スナック菓子はいくらでも入るので危ない。




唐揚げを初めとした「油」もときどきえらい目に遭うことが。




基本は夕食のおかずを先に頂くというパターンである。

珍しく炭水化物を摂取することもある。かなり特別な日。炭水化物自体はスナック菓子喰うから珍しくでもないが。


だらだらと寛ぐ。


こちらは貴重な麦。


麦以外もある。

すべて2014年から2016年撮影。
つまみが多くなるのでカロリーも高い。加えて本数も増える。
呑むのを外だけにすればそれほど心配はないのですが。

退院カウントダウンが始まって呑める日が近い。

時代は違っていても

2018-04-03 18:41:20 | 徒然に2018-2020
入社式の記事をちらほらと見かける。儂もかなり違和感があるのだが。

親ははっきりいって仕方がない。
そこで、子が「来るなや」って言えるかどうかが大事だと思う(個人的にはこれが一般的なのではないかと)。実際に来ることになるかそうでないのかは兎も角として。

外の場でそれが言える感覚って大事だと思うんだが。所謂外ではなく内側で親子関係がどうこうということまでは別に問わないので、せめて。

時代が違っていても

2018-04-02 09:14:21 | 徒然に2018-2020
少し前のニュースで見た。

いけないのは当然だったが、昔なら当たり前のようにあっただろうと思った。

儂の場合は、就職活動と平行して院の受験も準備していた。自分の大学ではなく別のところ。自分のとこは難しくて受けなかっただけだったが、担当の教官からは結構いろいろ言われて、しまいには卒業させないみたいなことまで言われた(本当)。ゼミなんかでの指導も、厳しいと言うより単に嫌がらせみたいに感じることも普通にあった。
今だったら問題だろうが、昔なら割とよくあったことだろう。
儂のいた研究室は、卒論とかで研究したことを雑誌に投稿する場合、院生しか自分の名前で投稿できなかった。じゃ学部生はというと全部教官の名前になった。何より教官から見て指導しがいのない卒論のテーマは、教官が進めている研究テーマに強制的に変更させられることもあった。儂のはそのパターンだった。これが当たり前だと思っていたが、地元に帰ってきてから違うのだと分かった。

させられた感は否めないが、それでも、論文指導は厳しく理にかなっていたように思えたから、あまり好きではないことだったが言われたとおりに進めた。この論文を書く要領とか研究の視点とかが20年経って後で生きたということは否定できない。させられるというのは地力はつくらしい。ただそれとハラスメントまがいの行為とは別であるのは確かだが。
因みに自分がしたかったテーマは、数年後に別の教官が取り上げているのを知った。やりたかったことができなかったとか、腹が立ったということはまるでなくて、自分の研究に関する目の付け所が外れていなかったというか、それなりに意味あるところだったということが分かって安堵した。

いろいろなハラスメント紛いのことが行き交っていたように思う。社会勉強と言うには看過できないと今では思う。ただ、当時は思えなかった。
置かれている環境で、感覚が違ってくるのだなと思った。まあ、その研究室で世話になったのは、ゼミで英語に触れなくても良かったからでそれが無茶苦茶有り難い話ではあってこういうことも含めてプラマイゼロ、なのかもしれないけど。
家人も何かと大変だったようだが、無事に出ることができたそうで。こんな時期だから、自分のことを思い出したりして。
今日、いよいよ新たなスタート。



どう区切りをつけるか

2018-04-01 07:12:48 | 徒然に2018-2020
以前のように、走れなくなったからだけではないですが、本ブログについてはいろいろ考えることもあって。実際「遠くへ」のカテゴリーは後1回分(三江線トレースの記録)だけになったこととか、gooのブログは画像掲載の容量が3GBまでで、もう2/3超えているという現実的な事情とかで、ぼちぼち区切りが必要かと思っているのは確かで。

公開しつつも、もともと自分の足跡の記録代わりそして半分遺言状代わりというつもりでいるので、綴ること自体自分の都合でしかないからぐずぐずここに綴るのも何だかなあなのは確かですが、今暫くはそんなことを考えながら着陸点を探していきます(写真は転院して137日目の夕日ではなく朝日)。

結構な方に見ていただいていること自体、モチベーションに繋がっているのは確かですし。