先に、このブログでこんなことを書いたことがあります。
茶席によくある「本来無一物」の禅の言葉。ものには執着するなとの意味なのに、茶席では「お道具拝見」の儀式もあって、お道具自慢?
もちろん、よいお道具でお茶をたてたり頂いたりするのは、気持ちいいものなのですが。
どうして? 誰か教えて?と書いたものです。
最近購入した直木賞作家の山本兼一氏「利休の風景」にも、同じ疑問が呈されていました。
書店で立ち読みしていたら、同じこと書いていたので、おお、同士?がいると嬉しくなり、購入してしまいました
「道具への執着ーー茶の湯には、どうしても、それがつきまとう。それは本来無一物をとなえる禅の境地と、はなはだしく矛盾、対立する俗な意識なのではないかーー。そのことを居士本人がどのように考え、こころのなかで解決していたのか、わたしは、ご本人に訊ねてみたくてたまらない」
とあります。
利休についての小説を書くために、あれだけ調べた人でもわからない。結局本人に訊くしかない、ということなんですね。
でも、同じ疑問を抱いている人がいて、嬉しいです。
疑問を抱いていると、たいていその答えが向こうからやってきます。
答えはわからない、というのも答えですよね。
これその一例です
そんな質問茶席でしたら、波紋、破門ですね、きっと
利休本人は、自分のそんな矛盾に気づいていたのでしょうか。
秀吉が彼にいらだちを感じていたのは、そんな矛盾をうっすらと感じていたからかもしれません。
来年は海老蔵と中谷美紀とで山本氏の受賞作「利休にたずねよ」の映画が公開されます。
お道具のことをたずねるわけではありませんが、早くも楽しみです。
帯・花織
帯締め・道明
クリスマスとは打って変わって地味です。
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