「1000年後に生き残る青春小説講座」という本を先日読んだが、その中で6000万部以上を売り上げ今なお年間50万部以上が売れている、J・Dサリンジャーのキャッチャー・イン・ザ・ライ」を生き残り候補に挙げていた。
以前村上春樹の訳したものを読んだことがあった。
ただ随分以前のことで、・・・ライ麦畑で遊んでいて誤って崖から落ちたりしないように僕はは子供達を守るのだ・・・などという言葉だけを覚えていた。
読後感の記録には星を5つもつけているから、かなり感銘を受けている筈なのに本の題になっている言葉だけしか思い出せないという体たらくだ。
再度図書館から借りることにして、ついでに他の本も借りてきた。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」J・Dサリンジャー(著)村上春樹(訳)2003.4白水社(刊)
「人生のちょっとした煩い」グレイス・ペイリー(著)村上春樹(訳)2005.6文藝春秋(刊)
たまたま訳者が同じである本を選んだのは偶然だった。
「ライ麦畑・・」の方は僕が君へ語る長い少年の頃の物語で、エデンの東にちょっと似た感じもする。
言葉に敏感に反応しグッド・ラックには拒否反応を示す少年だ。
題の由来のライ麦畑で・・は、スコットランド民謡として有名で、日本では「故郷の空」という歌でお馴染みと知った。
確かにやるせない少年から青年期への心の動きは、おそらく沢山の人達が共感し、そして読み継がれて行き永遠のベストセラーになり得る一冊だろう。
「人生のちょっとした煩い」は15の短編からなっているが、この表題は短編の作品としては無い。
6編目の「人生の関心」のなかにちょこっと出てくる、・・・つまり「人生のちょっとした煩い」みたいなものでしかない。という文章から立ち上がってきたものだろう。
とても会話の多い作品ばかりで、スピード感のある文章がとても面白い。
現実に生き、思い出にも生き、空想や夢でも生きることの出来る強い女性が主人公のものが多い。
「グッド・ラック」と最後に言い切る場面があって「ライ麦畑」との違いが如実である。
訳者が同じなので、多分意識したのではないかと思う。
「いのちのことば」柳澤桂子(著)2006.12集英社(刊)
上記の2冊が僕が君へ語る物語、或いは私が語る物語として構成されているのに対して、この本は「いのちのことば」として直接読者に語りかけている。
「病」「家族」「いのち」「心」「老い」に章分けされていて、詩のようでありエッセーのようでもある。
文末が「です。ます」調と「である・ではない」調のものが混用されていて、見開きの左右のページで異なる用法が多く見られ、読んでいて違和感が生じた。
多分たくさんの書籍や出版物などに掲載されたものから抽出して再構成して1冊にまとめたためだと思われる。
上記2冊を読んだ後だったのが違和感を覚えた原因かもしれないが・・・。
考えてみれば読書は読んでいるときが勝負であって、後でいくら覚えているかなど考える方が間違っているのだろう。
唯でさえ記憶力の衰えを嘆いている私としては尚更のこと。
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以前村上春樹の訳したものを読んだことがあった。
ただ随分以前のことで、・・・ライ麦畑で遊んでいて誤って崖から落ちたりしないように僕はは子供達を守るのだ・・・などという言葉だけを覚えていた。
読後感の記録には星を5つもつけているから、かなり感銘を受けている筈なのに本の題になっている言葉だけしか思い出せないという体たらくだ。
再度図書館から借りることにして、ついでに他の本も借りてきた。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」J・Dサリンジャー(著)村上春樹(訳)2003.4白水社(刊)
「人生のちょっとした煩い」グレイス・ペイリー(著)村上春樹(訳)2005.6文藝春秋(刊)
たまたま訳者が同じである本を選んだのは偶然だった。
「ライ麦畑・・」の方は僕が君へ語る長い少年の頃の物語で、エデンの東にちょっと似た感じもする。
言葉に敏感に反応しグッド・ラックには拒否反応を示す少年だ。
題の由来のライ麦畑で・・は、スコットランド民謡として有名で、日本では「故郷の空」という歌でお馴染みと知った。
確かにやるせない少年から青年期への心の動きは、おそらく沢山の人達が共感し、そして読み継がれて行き永遠のベストセラーになり得る一冊だろう。
「人生のちょっとした煩い」は15の短編からなっているが、この表題は短編の作品としては無い。
6編目の「人生の関心」のなかにちょこっと出てくる、・・・つまり「人生のちょっとした煩い」みたいなものでしかない。という文章から立ち上がってきたものだろう。
とても会話の多い作品ばかりで、スピード感のある文章がとても面白い。
現実に生き、思い出にも生き、空想や夢でも生きることの出来る強い女性が主人公のものが多い。
「グッド・ラック」と最後に言い切る場面があって「ライ麦畑」との違いが如実である。
訳者が同じなので、多分意識したのではないかと思う。
「いのちのことば」柳澤桂子(著)2006.12集英社(刊)
上記の2冊が僕が君へ語る物語、或いは私が語る物語として構成されているのに対して、この本は「いのちのことば」として直接読者に語りかけている。
「病」「家族」「いのち」「心」「老い」に章分けされていて、詩のようでありエッセーのようでもある。
文末が「です。ます」調と「である・ではない」調のものが混用されていて、見開きの左右のページで異なる用法が多く見られ、読んでいて違和感が生じた。
多分たくさんの書籍や出版物などに掲載されたものから抽出して再構成して1冊にまとめたためだと思われる。
上記2冊を読んだ後だったのが違和感を覚えた原因かもしれないが・・・。
考えてみれば読書は読んでいるときが勝負であって、後でいくら覚えているかなど考える方が間違っているのだろう。
唯でさえ記憶力の衰えを嘆いている私としては尚更のこと。
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