三月四日(金)晴れ。
今日も冬に逆戻りしたような寒い一日だった。それでも寒い、寒いなどと言っていると獄中で座している同志に申し訳ない。知り合いには、無期で座っている人が三人もいる。
寝てばかりいるので、腰が痛くてマイッタ。八時に起きて、三日ぶりにまともな朝食をとった。鮭、大根おろし、納豆に「しじみの力」にご飯。しかしまだ体が本調子ではない。それでもどうしてもやらなければならない原稿があるので、机に向かった。寒気がするので沢山着こんで暖房を入れた。部屋の中で暖房を使うと、どうも後ろめたくて嫌だ。
連載させて頂いている「実話ドキュメント」の第百四回を何とか夕方までに脱稿した。「我が生い立ちの記」の二回目。考えてみたら、誰が私の生い立ちなどに興味があるかと、笑われそうだが、そこは、横浜の歴史や時代背景を加味してあるので、何とか読むに耐えられるのではないかと思っている。その後、「大吼」用の「編集長の『本の虫、ほんの無視』」の第一回を書き上げた。計算違いで頁不足になってしまったので、慌てて書き上げた。時計を見れば、外はもう真っ暗である。もう一本書かなければならないのだが、体力がもたん。
私の出た小学校の歴史を調べていたら、江戸後期から明治初期までのわが国の識字率について書いてあるものを見つけた。その当時の日本の識字率の高さは世界最高水準にあった。明治十年に滋賀県で実施された調査では「六歳以上で自己の姓名を記し得る者」の比率は、「男子八十九%、女子三十九%だったそうだ。
その識字率の高さの要因は寺小屋教育にあると指摘している。義務教育制度が開始される以前にも文字教育を担った寺小屋は江戸時代後期には全国に五万ヶ所にも達していた。当時(一八五〇頃)の就学率は七〇~八〇%だという驚異的な数字が残されている。ちなみに同時代の英国は二〇~二十五%(一八三七)、フランス一・四%(一七三九)、ソ連二十%(一九二〇)などと比べても日本の就学率がいかに高かったかが分かる。ちなみに私が出た小学校の前身は明治六年に開設された寺小屋である。
夕食を食べ終えた後は、早々と布団に入った。もう四日も飲んでいない。このままやめてしまおうか、いや飲むのは週に二回ぐらいに、いやいや休肝日を週に二回。まあ調子が良くなってから考えるとするか。