白雲去来

蜷川正大の日々是口実

札幌から帰宅。先輩の古稀の祝いに出席。

2011-03-13 13:15:00 | インポート

三月十三日(日)晴れ。

 朝六時起床。昨夜、ホテルの部屋に戻っても気になってついテレビのニュースを遅くまで見てしまうので、起きるのが辛かった。それでも頑張って起きて、朝食をとり荷造りをしてロビーに下りた。すでに、隠岐、松本、藤田の諸氏と、梶浦、山本の両君が待っていてくれて、一路千歳へ。梶浦、山本の両君とはここでお別れ。お世話になった三日間を感謝。

 十時半のJALにて羽田へ。空港には、家族が迎えに来てくれていた。とりあえず家族の元気な姿に接し、一安心。ここで隠岐、松本の両氏と別れた。車で横浜に戻るが、首都高速の湾岸線が通行止めなので、一号線に出る。自宅に戻る前に事務所に行く。本当は、すぐに事務所の様子を見に行って欲しかったが、考えて見れば、札幌にいて事務所の状態を知ったからと言って何か出来るわけではないし、門下生も皆、それぞれが大変な時に、事務所に行って来いとは言えない。それなら帰るまで知らない方が良いと思っていた。

 恐る恐る、シヤッターを開けて中に入ったら、想像していたよりも事務所の中は、雑然としておらずホットした。それでも印刷機や丁合機、パソコンなどが動かず、その調整が大変である。それでも、マンションが崩れたわけではないので良しとしなければ。

 三日ぶりに自宅に戻り、家族で遅い昼食をとり、地震当日の話を聞いたが、学校はかなり揺れて、泣き出す子もいたそうだ。余震があると思うので、家族で避難場所や避難する際の緊急袋の確認などした。

 夕方、大和市の中華料理店にて、大日本一誠会、明鏡会の田中能理夫先輩の古稀の祝いがあるために、近所に住む明鏡会の木場君に迎に来て頂き同行する。

 五時に、古稀の祝いが始まるが、ガソリンスタンドが何処も列をなしているので、遅れてくる同志もいた。私は、発起人の一人として挨拶をさせて頂いた。七時に終了。再び木場君に送って頂き帰宅。


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石澤君の結婚式に出席。

2011-03-13 13:12:00 | インポート

三月十二日(土)晴れ。札幌にて。

 あり難いことに、私の安否伺いの電話が、早朝の四時まであった。ウトウトするとまた電話が鳴る。電源を切ろうとも思ったが、心配してくれている人達に失礼なので、応対した。

 朝八時に、隠岐、松本、藤田の諸兄と朝食の約束をしている。九時にすれば良かったと思いもしたが、早起きは三文の徳と、頑張って起きた。京王プラザの朝食のバイキングが好きだ。好きなボロニアソーセージや好みの物が沢山ある。朝食をとっている人たちの話題は、一様に東北地震のこと。私も、一日も早く自宅に戻りたいが、ジタバタしても始まらん。

 十時半にも梶浦、山本の両君に迎えに来て頂き、学純同の前田伏樹総裁の奉職している札幌諏訪神社へ参拝。生憎と前田宮司は所用で出かけていたが、皆で、皇国の安泰と被災なされた方々に思いを馳せて手を合わせた。

 その後、中央市場へ昼食をとりに行くが、こうした観光市場の値段の高いことには、ナメンナヨという感じがする。マグロのトロの刺身が一人前、二千五百円、その他、ウニイクラ丼などは三千円近くもする。昼食に一人三千円も五千円も使うのか。六人で行ったら三万円。冗談じゃネェと思って、近くの「ひぐまラーメン」に入った。決してケチではなく、バカバカしいのである。札幌まで来て、横浜より高いものを食えるのかって言うの。

 ホテルにもどり、三時過ぎまで爆睡した。四時に再び迎えに来てもらい、着替えをして結婚式場へ。今日到着する社友のぶちが、飛行機のキャンセル待ちでようやく到着した。ご苦労さん。

 石澤博文君と新婦の里見さん、大翔君に挨拶。癌の治療で出席できない石沢君のご尊父に代わって写真に映る。披露宴も、中々良く、料理も本格的で美味しかった。八時過ぎに終了。二次会は、梶浦、松本、ぶち等に任せて、田中清元、前田伏樹のお二人と隠岐氏と共にすし屋へ移動。その後、二次会に行っていた組と合流して、すすきのに転戦。十二時過ぎにホテル着。


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札幌着。大地震を知る。

2011-03-13 13:08:00 | インポート

三月十一日(金)晴れ。

 明日の五時から、社友の石澤博文君と里見さんの結婚式に出席するために、 羽田のカウンター前で、自宅近くに住む藤田秀ちゃんと隠岐康、松本佳展の両氏と待ち合わせて十二時五分発のJALにて札幌行き。

 千歳空港には、社友の梶浦直樹君と、国の子評論のあんみつ姫こと山本和也氏のお二人に迎えに来て頂いた。久闊を叙し一路、市内へと向う。このとき、運転をしていた山本氏が、「アレ、眩暈がします」と言うので、皆、「太っているから高血圧に気をつけろを。そのせいだ」と笑い飛ばしたが、これが東北地震の影響と分かるのは、もう少し後のことである。

 昨年の暮に来た折に、狸小路で見つけた、怪しいプラモデルと軍事グッズのお店に隠岐氏を案内したのちに、山本氏の知り合いの屋台村のような場所にある「牡蠣」を食べさせる店で、遅い昼食をとっていると、広場の中にあるテレビを見ていた人たちが、「うわー」と叫んだ。何事かと思って、テレビの前に行けば、ヘリコプターからのライブで、走行中の乗用車が、津波に今にもの見込まれそうな映像が映し出されていた。

 隠岐氏などは、テレビに向かって、「早く逃げろ」と怒鳴っている。もう食事どころではない。次々と、惨状が映し出され、皆、言葉もない。我に返って自宅に電話をするが、全くつながらない。大変な時に札幌に来てしまった。留守家族が心配なのは、同行した人たちの共通の思いである。夕方になって、ようやくメールがつながり、家族の無事を知り、安心する。

 ホテルに入ってからも、テレビに釘付けである。信じられないような映像が次々に映し出され、これが現実に日本で起こったことなのかと、信じたくもない。まるで絨毯爆撃に遭ったようだ。

 六時に、夕食のためにロビーに集るが、皆一様に地震と津波の話と家族や、東北にいる親族の安否でとても食事に出るという雰囲気ではないが、しかし、心配しても北海道にいては、いかんともしがたい。帰ろうにも飛行機の予約が取れないし、来る時の飛行機が、午後の便だったなら、きっと札幌に来れなかったに違いあるまい。

 地元の方に紹介された「大助」(おおすけ)という居酒屋に行ったが、中々良い店で、料理も美味しいのだが、やはり飲んでも会話が弾まない。その後、一軒転戦して、早めにホテルに戻った。横浜への携帯が通じたのは深夜に入ってからであった。早朝まで、私の安否を確かめる電話やメールがひっきりなしに入り、結局、寝たのは午前四時を過ぎた頃だった。


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