白雲去来

蜷川正大の日々是口実

おんな酒場放浪記と「やまと」

2014-03-01 15:24:24 | インポート

二月二十八日(金)晴れ。

二月は、俗に「逃げる」とか。通常の月よりも二、三日も少なく、特に今月は土日の雪。客商売をやっている人たちは大変だったに違いあるまい。


案の定二日酔い。昨日、すみ君と別れて、勢いづいて関内に出撃した。個人的に狭斜の巷へ繰り出すなど久しぶりのことだ。サリーの店で飲んでいたら「親父ギャグ」仲間のなかみっちゃんと連絡が取れて、それから三軒転戦。絶対国防圏を突破されて、どう帰ったか良く覚えていない。目覚めてみれば、昨夜の愚かしさにおののく。幾度こんな朝を迎えてきたことか・・・。それにしても懲りない。まだ猿の方がマシかもしれない。


午後までぼんやりしていた。子供に行って風呂を入れさせてのんびり入って汗をかき酒を抜いた。いつも真面目に働いている労働者の皆さんとお天道様に申し訳ないと自己嫌悪に陥る。風呂の中でスマン・スマン・オスマンサンコンと心で詫びて一瞬の禊をする。こんなことで穢れが取れる訳ではないのは分かっているが、反省しないよりましだろう。


夜は、カメ&アコちゃんや愚妻と一緒に「やまと」へ行く。何でも今日は「おんな酒場放浪記」の撮影があるとのこと。「酒場放浪記」の大ファンのカメちゃんから、吉田類が行った店を「おんな」シリーズで再訪するから、必ず「やまと」にもまた来ます。と聞いていたのが、本当になった。撮影で、一般のお客さんに迷惑をかけてはいけないということで、常連さんがカウンターを占領していた。久しぶりにお母さんが来ていた。その昔はカウンターの中でお客さんの相手をしていたが、今は楽隠居。


お母さんを相手に飲んでいると、撮影が始まった。今日の放浪の客はモデルの倉本康子さん。すらりとした美人であるが、失礼ながら、このシリーズを見るまでは存じていなかった。最もほとんど芸能界や芸能人と言う人たちと縁もないので、たとえすれ違ったとしても分かる訳はない。撮影を無視してお客さん同士でかなり盛り上がっていた。それにしても、インタビュアーのお嬢さんよりもプロデューサーの人の方が主役のようだった。裏で番組を支えている人たちの大変さを垣間見た次第。

P1000142 ※インタビューに答えるマスター。この日一番盛り上がっていた。隣は息子さん。


連日の酒で少々疲れていたので、十時前に解散。


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朋、遠方より来たり。

2014-03-01 14:27:31 | インポート

二月二十七日(金)曇り後雨。

今日は、下の子供の公立高校の合格発表がある。朝、京急の駅まで送って行ったが、一応親としては内心穏やかではない。どんなアホバカ学校であってもとりあえずは合格してもらいたいと思うのが親心。

午前中に、電話があって「合格」とのこと。祝着、祝着。帰ってきた子供とランチに出かける。合格祝いとは行かないが、「何を食べたい」と聞けば、「洋食屋さんに行きたい」とのこと。気の利いたレストランなど知らないので、もう六十年近くもやっている伊勢佐木町の「コトブキ」へ行った。

このお店に初めて来たのは小学生の頃だった。母に連れられて「カツライス」を食べるのが楽しみでもあり、少し誇らしかった。大人になってからは、当時は珍しい二十四時間営業の店なので、飲んだ後などに友人らと良く行ったものだ。景気の良い時は「ミックスグリル」。不如意の時は「レバカツ」で一杯やった。今のお店は、当時のお店から少し移動した所にある。お店のウエイトレスさんに、当時いた「玉ちゃん」と呼んでいた、愛想の良い女の人は元気?と聞けば、「もう亡くなりました」。「このお店も経営者が歳で、一代で終わりですよ」。考えてみれば、私だって六十を過ぎた。町も人も当然のように思い出の彼方に消えて行く。

P1000130 ※「コトブキ」の自家製マヨネーズのファンは多い。ライスを注文すると「シジミの味噌汁」が付いてくるのも昔のままだ。

P1000133 ※「コトブキ」の外観。昔のお店の方が風情があったように思えるのだが。

夜は、先日の東京都知事選挙において帯広から上京して田母神氏の応援にボランティアとして参加した「すみしげあき」さんを個人的に労おうと中華街で一献会を催した。彼は、田母神氏と個人的な付き合いがないにも関わらず、意気に感じ、仕事や家庭を顧みず、文字通り退路を断ってボランティアに参加した好漢である。

沖縄の孤島で黙々とサトウキビ畑で働いている大陸浪人の杉山茂雄君や、すみ君などこういった青年が私の周りにいることを誇りに思う。待ち合わせは中華街の交番。生憎の小雨である。お会いするのは昨年の群青忌以来である。お店は「菜香」にした。まず「青島ビール」で乾杯。その後は紹興酒に変えて時局を肴に一杯、一杯復一杯。肴は「ホタテ貝のニンニク蒸し」「エビ春巻き」「海老と豆腐の蒸し物」「蒸し鶏」。

1795668_501203843322773_1339300185_ ※すみ君と。「安記」の前にて。

八時半から東京で彼の送別会があるとかで、ではもう一軒と、次は「安記」に転戦。中華街のハシゴは珍しいが、彼に私の好きなお店を知って貰いたいからだ。偶然に「ラッキー」夫妻と会う。いつもの「モツ皿」「レバ皿」で紹興酒を一本。すみ君を地下鉄の中華街駅まで送って再会を約して別れた。


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二・二六の今年は獄のほそ霙

2014-03-01 11:27:42 | インポート

二月二十六日(水)晴れ。

野村先生の獄中句集「銀河蒼茫」の冬の句に、「二・二六の今年は獄のほそ霙」がある。二・二六事件というと歴史の彼方の出来事のように思えるが、私が生まれるわずか十五年前のことだ。そう考えると、歴史の距離間があっと言う間に縮まる。私が、後輩や若い人たちを連れて戦跡慰霊を行うのは、大東亜戦争を本や映画などでは知識としては理解しても、なかなか実感が湧かない。戦跡を巡ることによって「歴史の距離感が縮まる」ことを実感してもらうためでもある。


二・二六事件と言うものを初めて意識したのは小学生の低学年の頃だった。横浜に大雪が降った朝、その雪景色を見た母が、「まるで二二六事件の時のようだね」と私に行った。昭和十一年の二月に、母は渋谷に住んでいて、二・二六事件に遭遇したと聞いた。母は、何か特別な収入が入ると、私を渋谷に連れて行ってくれた。確か「パンテオン」という映画館で封切りの洋画を見てから、道玄坂で食事をし、プラモデル屋のガンコーナーで当時流行っていた「ウインチェスター銃」などを買ってくれた。

 

自分が住んでいただろう付近を懐かしそうに歩き、「あの時は珍しく大雪でね、兵隊さんが一杯いて、家の人から『表に出てはいけない』と言われたが、怖いもの見たさで外に出た」と話してくれた。当時の私には、二・二六事件と言うものが何であるかなど分かる訳もなかったが、雪と軍隊の反乱ということを想像するだけで、何か冒険小説を読むように胸が高鳴った。

 

二・二六事件をテーマにした映画を見たのも小学生の頃で、井土ヶ谷にあった映画館だった。昭和三十七年公開の「脱出」。決起将校が首相官邸に行き、岡田首相と間違えて義弟を討ってしまう。岡田首相が官邸から女中や警察官などの手によって「脱出」するスリリングな映画で、栗原中尉を演じた江原慎二郎がハマリ役だったことを良く覚えている。

 

民族派運動に入った当初、何かの本で、栗原中尉のお墓が保土ヶ谷のお寺にあると書いてあったのを読み、散々探し回ってそのお寺を訪ねた。処刑直後は郷里に埋葬するのを憚って縁者のつてで保土ヶ谷のお寺に埋葬されたらしいが、その後は賢宗寺に合同埋葬?されたと聞く。(間違っていたらごめんなさい)。賢宗寺を訪ねたのはまだ二十代の頃だった。慰霊碑に手を合わせてからの帰路、近くにあった古本屋で「パール判決書」を購入した。書棚にあるその本を目にすると、その頃のことを思い出す。


桜田門の変、二・二六事件、経団連事件の時も一瞬雪が舞った。そして我々の事件の時も前日からの雪。そんなせいか今でも雪が降ると胸騒ぎがする。「貧困の政治飛雪が罵りあふ」とは先生の句である。

 

珍しく自宅でのんびりした。居間に掛けてある先生の書の埃を取ってきれいにした。為書きの入った「ひたすらにゆく冬銀河さみしからず」が横書きの物と、縦書きの物が二枚ある。先生が「経団連事件」にて戦線復帰した直後に書いて頂いたものだが、失礼ながらまだ書が枯れていない。やはり晩年の書がいい。書画は季節で飾るものだ。この先生の書も来年までお休み。国際政治学者の藤井厳喜先生にお願いして書いて頂いた「剣錆び書は破れたり寒北斗」もきれいにしてしまった。

P1000128 ※横書きの書。「為、正大君」とある。 

P1000127 ※縦書きの物。

P1000143 ※藤井先生の書。


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