白雲去来

蜷川正大の日々是口実

かなり激動の時代を生きてきたかもしれない。

2014-03-13 14:52:48 | インポート

三月十一日(火)晴れ。東北大震災追悼の日。

三年前のこの日、「何処で何をしていた」ということをそれぞれの人が忘れられずにいることと思う。私は、後輩の結婚式に出席するために札幌にいた。羽田空港では、私たちは午前の便だったが、サリーたちが午後の便でハワイに行くと言うので一路平安のメールを入れて機中の人となった。

札幌には、梶浦、山本の両君が車で迎えに来てもらい、そのまま市内に向かった。牡蠣を美味しく食べさせる店があると言うので、その店に向かう途中、運転をしていた山本君が「車が揺れていますよ。地震ですかね」と言った。私たちは何も感じなかったので、「太り過ぎでめまいでもしたんじゃないの」と笑い飛ばして、まずは安着祝いに一杯と、お店に入ってた。くつろいでいると、お店の中央にあるテレビを見ていた人たちが、「オオッ!やばいよ。早く逃げろ」と叫んでいる。何事かと思ってテレビを見れば、津波が道路を走っている車に迫っている所だった。

一瞬、何処の国の出来事かと思ったら、宮城県とのこと。その後、テレビに映る津波のライブ映像に慄然とした。ニュースでは、横浜のマンションの壁が崩れた、とか逃げ惑う人の姿が映っている。家が心配になり、電話をしても全く通じない。明日の披露宴の出席をキャンセルして横浜に戻ろうかと航空会社に電話すると、満席でかつ飛行機が遅れているとのこと。六時前に家族と連絡がついて一安心したが、ホテルに戻っても、テレビに釘付けとなってほとんど寝ことが出来なかった。サリーたちは、空港で地震に遭遇し、大変な騒ぎだったと帰国後に聞いた。

戦後に生まれた私は、当然戦争と言う実体験はないが、子供の頃にはまだ戦争の「傷跡」がずい分と残っていた。池で遊んでいると「焼夷弾」の残骸を見つけたり、小学校に行く坂の途中には防空壕があって、今で言うホームレスの人たちが生活をしていた。杉田飛行場後の海で泳いだり、山下町、本牧は米軍に接収されていて、金網のフェンスの向こうはアメリカだった。戦争は知らないが、戦争の残滓の中で多感な少年時代を過ごした。

中学の時に衛星放送が開始され、ケネディ大統領の暗殺をライブで見た。東京オリンピックは中学の二年生。人類が月に立ち、ベトナム戦争、社会主義の崩壊、ベルリンの壁の開放と東西ドイツの統一、ソ連の民主化。時代は生まれた昭和から平成に移った。そして東北大震災。かなり激動の時代を生きてきたような気がする。

キザなようだが、これから日本がどうなって行くのか、老骨に鞭打って見定めなければならないと思う。クソの役にも立たないかもしれないが、一旦緩急あれば・・・ファイティング・ポーズだけは保って行くつもりでいる。愛する御国のために。感慨深い一日だった。

夜は、マグロのカマの塩焼きと、蒸し鶏と、油揚げの中にシラスとみじん切りしたネギを入れて、軽く焼いた物を肴に、我が酔狂亭で月下独酌。秋の夜の酒ではないが、一人静かに飲んだ。


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