三月二十二日(土)晴れ。
二日酔いで体調が悪いかと思ったが、案外すっきりとおきられた。朝食ののちは家族で「イセブラ」。今はこんな言葉は死語になったが、伊勢佐木町をぶらりと散歩するから「イセブラ」。「銀ブラ」という言葉もあるが、これは銀座をぶらぶらすることではなく、銀座にあった「ブラジル」というお店でコーヒーを飲むことだと教えてくれたのは郡山の盟友氏。信じがたかったのでPCで調べてみたらその通りなのでぶったまげた。
「週刊文春」の先週号から「ロス疑惑」-「疑惑の銃弾30年目の真実」という特集が組まれている。三浦和義氏を「善意の被害者」から「疑惑の人」へと変えたのも「週刊文春」だった。1984年に『週刊文春』が「疑惑の銃弾」というタイトルで、妻に多額の保険金をかけていたことや、現場にいた白い車に三浦が全く気づかない三浦の供述などを理由に、「三浦が保険金目当てに仕組んだ事件ではないか」とする内容を連載した。その後のマスコミの過熱報道を知っている人は多いだろう。
現在は、逮捕された人の顔を毛布などで隠すという人権的なことが行われているが、これは三浦氏の逮捕がきっかけだった。報道陣の前を手錠姿の彼が連行されて行く。まだ犯人と確定したわけではないのに、三浦氏はこれを人権侵害として裁判に持ち込み勝訴した。
私が、彼を知ったのは東京拘置所でのこと。連合赤軍の植垣康博氏や三浦氏と拘置所内で文通を重ね、所内での過ごし方やその他の処遇について随分とアドバイスを頂いた。私の確定とともに連絡は途絶えたが、最高裁で無罪を勝ち取った三浦氏や、刑を終えて復帰した植垣氏らと再会したのは、野村先生の追悼集会「群青忌」だった。
以後、植垣さんや三浦氏とは仲良くさせて頂いたが、三浦氏とは平成十九年に一緒にサイパンに行った。その際彼がかぶっていた帽子の文字がスラングで「グッバイ」を意味するもので自殺?を予言していたといった報道もあったが、勘ぐりすぎと笑い飛ばした。三浦氏が逮捕されるのはその翌年の二月、奥さんの良枝さんと一緒に行ったサイパンだった。
彼の逮捕を受けて、六月にサイパンの刑務所に面会に行った。緩やかな刑務所で金網越しに私と三浦氏が面会しているのが、待っている愚妻などに見えて、外から写真を撮った。
彼の逮捕は、日本の法律である「一事不再理」(ある事件について判決が確定した場合、同一の事件にて再び公訴の提起を許さないという刑事訴訟法の原則)を無視して彼を逮捕したことはやはり問題があると、人権派の弁護士などが抗議していたが、平成十六年十月、移送先のロスの拘置所にて不可解な死を遂げた。
昨年の十月に良枝夫人から五回忌が終わったとご連絡があった。今年は七回忌となる。
夜は、カメ&アコちゃんから連絡があって「颯」で一杯どうですか。と誘われた。それではと言うことで出かける。偶然に「彫よし」の先生一行とお会いする。しばらく飲んでから、昨日に続き「一休」へ転戦。「初カツオ」を堪能する。しかし、昨日の酒が残っているので早めに解散した。