三月十三日(木)春の嵐。
昨日飲み過ぎたせいか、朝が辛かった。今日は下の子供の卒業式。愚妻が仕事の関係でどうしても出席できないとのことで、私にお鉢が回ってきた。九時までに必ず行ってよ。と厳命され、一眼レフのカメラを持って、ヘロヘロな体に鞭打って学校へ行ったが、椅子席はすべて埋まっていて一番後ろで立つはめに。定時に開式。まず国歌斉唱。参加の人たちはほとんど声を出して歌っていない。次は「横浜市歌」。森鷗外の作詞によるこの歌が好きだ。旅先で、港に行き着くと必ず「横浜市歌」の一節が甦る。「されば港の数多かれど、この横浜に勝るあらめや」と。横浜の港は、「波止場」という言葉が良く似合う。
その昔の、日活映画「霧笛が俺を呼んでいる」のラストシーン。霧の横浜港、航海士役の赤木圭一郎が、友人の恋人役である芦川いずみとの別れのシーン。赤木圭一郎を見送る芦川いずみ。十代の頃の吉永小百合のアップもある。主題歌に載せて映画が終わる・・・。横浜を題材にした映画の中では、一番好きだ。(ユーチューブなどにアップされているので是非観て下さい)。ちなみに同名の主題歌は、作家の山平重樹さんの十八番です。そうか卒業式の話だった。
残念ながら「蛍の光」も「仰げば尊し」も歌われなかった。私が現代の義務教育に疑問を持つのは、こういう所にある。日本の伝統と文化を嫌悪する人たちは、その二つの歌の意味を知っているからこそ教育現場から排除させた。「蛍の光」を歌わせず、何の卒業式かと思う。
「蛍の光」は、明治十四年に「小学生唱歌」に掲載された。私の時代では二番までしか歌われなかったが、その歌の三番、四番の歌詞は、日本人としてのあるべき姿を詞にしている。
一・蛍の光、窓の雪、書読む月日、重ねつゝ、何時しか年も、すぎの戸を、 開けてぞ今朝は、 別れ行く。
二・ 止まるも行くも、限りとて、互に思ふ、千萬の、心の端を、一言に、幸くと許り、歌うなり。
三・筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、その眞心は、隔て無く、 一つに尽くせ、國の為。
四・千島の奥も、沖繩も、八洲の内の、護りなり、至らん國に、勲しく、努めよ我が背、恙無く。
「千島(北方領土)の奥も、沖縄も、八洲(多くの島の意味で、日本を表す)の内の護りなり」と。そして「その真心は、隔てなく、一つに尽くせ国のため」と説く。いつの日か、学校教育の場で「蛍の光」が四番まで歌われることを願ってやまない。
ちなみに「蛍の光」とは、中国の『晋書(車胤伝)』の故事に由来する。歌詞の冒頭「蛍の光 窓の雪」とは、「蛍雪の功」と言われ、一途に学問に励む事を褒め称えることである。東晋の時代の車胤は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。同様に、同じ頃の孫康は、夜には窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強していた。そして、この二人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している。
「仰げば尊し」は明治十七年発行の「小学唱歌集」に収録された。
一.仰げば 尊し 我が師の恩、教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)、思えば いと疾( と)し、この年月(としつき)今こそ別れめ、いざさらば
二.互(たがい)に睦(むつみ)し日ごろの恩、別(わか)るる後(のち)にも やよ 忘るな、身を立て 名をあげ やよ 励め今こそ 別れめ いざさらば
三.朝夕 馴(な)れにし 学びの 蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月、今こそ 別れめ いざさらば
この歌にも「蛍雪の功」がある。台湾では、現在でも卒業式では「仰げば尊し」が歌われていることを知る日本人は少ない。
夜は、友人らとの一献会。三軒ほど転戦して帰宅。連日の酒で少々疲れている。しかし自業自得でもある。