三月七日(金)晴れ。
事務所を片づけていたら、昭和六十二年の一月に起こした事件で、東京拘置所に座っている時に出した手紙が、当時友人が発行していた「墨東春秋」という機関誌に掲載されているのを見つけて、懐かしくなった。
下獄する直前のことで、そんな手紙を出したことも忘れていた。若かったせいもあって、随分と気負った文章を書いたものだと、汗顔の至りである。「獄中所感」と題した、その若き日の手紙を転載してみたい。
合掌 梅の熟す頃に降る雨の真最中、と云いたいところですが、梅雨どきに給水制限が出るほどの雨不足。あと数日後にせまった赤落ちを前にして、渭城の朝雨軽塵をうるおし、客舎舎青々柳色新なり。と「陽関の曲」でも吟じてと思うのですが軽塵をうるおすほどの雨もなく、獄舎は渇々として柳は、ただうなだれてこのまま夏へ一直線、我々には熱地獄となるかと思いますといささかウンザリします。
扨、いつも御支援ありがとうございます。待ちかねておりました「濹東春秋」奇しくも六月二十三日の沖縄慰霊の日にとどきました。先月号の義烈空挺隊を書きました「空中挺進」を襟を正して読み、私の家にあります戦時中の「日本ニュース」のビデオの中に義烈空挺隊出撃の場面があるのを思い出しました。奥山大尉以下正に義烈の特攻隊員が、まるでピクニックへ行くような感じで、にこやかに笑い神州の不滅と聖戦の貫徹を信じて、手を振り九七重爆に乗りこむ姿が鮮かに甦って来ます。
送るも征くも今生の別れと知れどほほえみて 爆音高く基地をける 鳴呼 神鷲の肉弾行。
以来四十二年、「経済繁栄にうつつを抜かし」資本主義のゆきづまりからくる精神の頽廃の中で、唯一武士の集団であるはずの自衛隊は、占領憲法の下、米国の極東戦略の中にくみ込まれ、米国の傭兵であることで、かろうじてその存在を認められています。日米安保などと云ふ美名の下でドレイの平和と魂のない繁栄を満喫している日本人、その日本及び日本人の姿をある戦争未亡人の方は、
かくまでも醜き国となりたれば 捧げし人のただ惜しまる
と詠みました。そんなことを書いておりましたら五年ほど前に森田、青木両兄と共に「民族派青年有志沖縄戦跡慰霊巡拝団」にて訪沖したことを思い出しました。たしかその年は森田兄が経団連事件にて五年の獄中生活を終へて戦線復帰の年。タイガービーチで大野康孝兄の好計にあって血を抜かれ、その後、東支那海に没む夕陽をうけて、砂浜にて「維新回天夕陽祭」を挙行したのが、昨日のことのように思はれます。本年秋には天皇陛下沖縄御行幸の事、残念ながら我々は鳳輦を拝することができません。沖縄の同憂諸兄にはくれぐれも宜敷くお伝へ下さい。話は変りまして「濹東探偵団」の皆様が杯盤狼籍を尽した岐阜の「むらせ」私も行ったことがあります。トコロ天があると云ふので注文したら何と砂糖がたっぷり入っていましたのには驚きましたが、皆様と同じく、「でんがく」を美味しくいただきました。
その岐阜は郡上八幡、かつての郡上藩のあったところですが、この郡上藩、幕末の動乱のときに、勤皇か佐幕かで大いにもめ、大政奉還後も、もしや徳川家の捲土重来があったときには、ごきげんをとっておかねばと、家臣をひそかに脱藩させ、会津へ向かわせるという勤皇と佐幕の二股政策をとりました。その郡上藩の二股政策の犠牲になったのが有名な、郡上の「凌霜隊」です。郡上藩青山家の家紋が、葉菊であるため、葉菊は霜を凌ぐことなり凌霜隊と命名されたそうです。とこれは澤田ふじ子という人の小説、「葉菊の露」からの受け売りですが、歴史には、正史、外史があれば、悲史、哀史、裏面史などもあります。凌霜隊の悲史、葉菊の家紋を守ろうとした結果が露のはかなさだった。我々の民族運動も、百年の後には悲史として語られるのでしょうか。
日本の民族運動が日本人の為だけの民族運動ではなく米、ソの狭間にあって民族解放斗争を戦っている国々と人々を支援し連帯して行ける事を願っています。新聞では連日のように韓国の民主化を叫んで斗っている学生運動が報じられております。米帝のカイライである全斗換政権を打倒し、韓国の民族主義の高まりに期待しつつ筆を置きます。濹東春秋社の皆様の御健勝を祈念して失礼致します。
昭和六十二年六月二十三日 控訴期限切れの日に。 YP体制打倒青年同盟 蜷川正大
私は、三十五歳だった。その後、韓国の「民族主義者」から日本がイチャモンをつけられようとは、当時は思いもしなかった。この時から三十年近い歳月が流れたが、アホ頭の私は何の進歩もしていない、自分を恥ずかしく思うことしきりである。当然、夜は、酔狂亭で月下にて沈思反省の酒を汲む。