三月四日(火)晴れ。
今日三月四日は、平成十八年に戦線復帰を一ヶ月に控えて獄中死した、私の後輩の板垣哲雄君の命日でした。縁の人たちに声を掛けようとも思ったが、平日ということもあって遠慮した。新横浜駅近くの三会寺という古刹に彼のお墓はある。大平、鈴木両総理邸の突入事件や逗子の池子弾薬庫建設に関して防衛施設局への火炎瓶投擲事件、最後はビツクバンに反対して東京証券取引所に立て籠もり八年の刑を受けた。戦線復帰直前の死はさぞ無念だったに違いあるまい。彼が好きだった酒を添えて手を合わせた。
板垣君が、東京証券取引所へ決起する少し前、色々なことがあって彼と疎遠になった。そのことに関して私は決して間違ってはいないと今でも思っている。しかし、決起の際に周りにいた人たちは、その後、彼に対して差し入れはおろか、手紙一つも送ることをしなかった。
結局獄中の板垣君からお詫びの手紙が来て、私も意地を張らずに最低限の支援をさせて貰った。亡くなった時も、三会寺のご住職のご厚意で八王子の医療刑務所にご遺体を迎えに行き、荼毘に付した。同行したのは、統一戦線義勇軍の針谷大輔議長や大悲会の志村馨君など、ごく少数の人たちだった。葬儀、三回忌、七回忌の法要を済ませたが、十三回忌までは何とか法要を続けたいと思っている。因みに板垣君が決起をしたのは、私たちが事件を起こした日と同じ、一月十三日だった。
板垣君の墓参の報告を一水会の木村三浩氏に入れた所、何と野村先生と親交のあった弁護士の西垣内 堅佑氏が亡くなられたことを聞く。板垣君が亡くなってから八年、そして今日の西垣内弁護士の訃報。正に時が過ぎて行くのではなく、人が去って行くということを実感する今日この頃である。
夜は、亡き友を偲んで、我が酔狂亭で月下独酌。
※昭和59年1月2日。靖国神社にて。板垣君や隣の小早川先生、そして羽織袴姿の中村太君、皆、亡くなられてしまった。
※昭和61年9月、東逗子公園にて。池子弾薬庫建設反対闘争の日。板垣君や木村三浩氏、針谷大輔氏、藤田誠一郎氏、有村浩一氏、清和崇氏など統一戦線義勇軍の人たちと。