三月二十三日(日)晴れ。
機関誌の最新号が完成した。通巻201号である。原則として一年で10冊として20年か。良く続いたと思う。発行所も横浜の下町の「睦町」から磯子区の「丸山」、そして港区赤坂、横浜に戻って来てから「伊勢佐木町」、さらに都落ちして「六つ川」へ。友人のご厚意で現在の事務所、「平楽」で発行している。これも高い購読料を支払って頂いている読者や社友のお蔭と感謝しています。
機関誌の創刊は昭和61年だが、すぐに休刊を余儀なくされ、再刊を果たしたのは平成三年のこと。当時は私が野村先生の後をついで大悲会の会長職にあったために機関誌の名前は「大悲ジャーナル」だった。
※創刊号は獄中者ばかりだった。原稿を頂いた三浦さん、永田さん、澤地さんのお三方は亡くなられてしまった。
平成四年の第8号から32号までは手作りで、単に義務として発行していただけで、内容にも見るべきものがない。この当時は、機関誌発行ということにそれほど力を入れていたわけではなく、編集作業の知識にも乏しかった。当時の編集は、まだパソコンがそれほど普及していなくてワープロで原稿を書いていた。
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ワープロで原稿を打って、編集しコピー機で両面コピーしていた。発行部数もわずか150部程度だったと思う。
その後、意を決して本格的に機関誌を発行する決意をして第58号、59号は久しぶりに印刷所に依頼して「経団連事件特集号」を発行した。66号まではB5版の大きさだったが、モノクロのレザープリンターを導入し、経費の都合から現在のA5版サイズとした。経費の問題というのは送料に関してである。この当時は、宅配業者のメール便がなく、すべて郵便局で発送していた。郵便では、大きさや微妙な重さで料金が違ってくる。従って、120円で収まる大きさと重さを計ってから頁数を決めるということをしていた。A5版28頁で封筒を入れるとギリギリ120円で収まった。細かい話かもしれないが、120円で500部を送ると送料だけで6万円。140円だと7万円。ほとんどが贈呈の雑誌を印刷の経費以外に毎月、6万円も7万円も送料を負担するということは、当時はかなり大変なことだった。
※A5版となった機関誌。当時は沢田陽介(堀雅昭)さんにほとんど書いて頂いていた。
平成11年の第85号からは、支援者の方に大型のカラーレザープリンターをご寄付頂き、表紙がカラーとなった。しかし、当時のパソコンの編集ソフトは「マック」が主流で、パソコンからプリンターへデーターを送信するためには、マックの外付けのソフトを取り付けなければならず、それが30万円もしたことを覚えている。
※カラー第一号。写真は、フィリピンはマタブンカイ・ビーチホテルでのもの。撮影は「不肖・宮嶋」こと宮嶋茂樹氏である。「週刊文春」の最新号に宮嶋茂樹氏のグラビア特集が掲載されています。
機関誌名を「大悲ジャーナル」から現在の「燃えよ祖国」と変えたのは平成13年の第107号からである。そして現在に至る。しかし頁数を増やせないのは、中綴じの機械が52頁を超えるとホチキスが届かなくなるのである。いずれは、丁合(頁揃え)、中綴じ、中折り、余白切り、までを一度に出来る機械を導入したいと思っているが、まあ予算の関係でいつになることやら。そして今月で201号。今後も鋭意努力しまして良いものを作りたいと思っております。ご支援のほどを伏してお願いいたします。
※最新号と別冊。年間購読料が一万五千円と安くありませんが、よろしくお願いいたします。
夜は、一杯やっている時に、京子ちゃんとアイリちゃん親子が来訪して私の誕生日のお祝いにと「赤霧島」を持ってきてくれた。ハレの日に開けるとするか。