三月二十日(木)曇りのち雨。
野村先生は、いわゆる「漢臭」を嫌っていた。安岡正篤らの本はほとんど無視していた。「新右翼の教祖」などとも言われたが先生は、葦津珍彦、三上卓、青木哲、中村武彦、影山正治、毛呂清輝といった本流右翼の思想家や先輩を尊敬し、その薫陶を受けていた。決して「新」などではなく、「真」右翼だったと思っている。先生の俳句集「銀河蒼茫」が、新潮社が選んだ明治、大正、昭和の俳句、短歌の101人の中に選ばれた。
私は、反対に先生の嫌いな漢詩、漢文を勉強した。先生が嫌いならば。私の付け入る隙があるのではないかという姑息な考えからだ。もちろんわずか四年ばかりの付け焼刃の勉強だから、ほとんど身につかなかったが。それでも今日のように、雨の日に浮かぶのは俳句や短歌ではなく、南宋の詩人、陸游の「臨安にて春雨初めて霽(は)る」の一節だ。
小楼一夜春雨を聴き 深巷明朝杏花を売る。
徹夜して雨の音を聞いていたわけではないが、この時期の雨は寒さを増すので好きではない。それでも考えてみれば一雨ごとに暖かくなるのだから文句も言えないか。愛車が定期点検とリコールのためにディーラー行き。家でじっとしていてもつまらないので、東戸塚駅のダイエーにて買い物のお付き合い。子供たちから一日早い誕生日プレゼントのサプライズ。
ニュースによれば、今日は「地下鉄サリン事件」から十九年とか。あの日のことはよく覚えている。まだ事務所が赤坂にあった頃の出来事だった。新橋から地下鉄に乗って赤坂見附(当時は「赤坂山王」の駅はなかった)で下車し、「みすじ通り」にあった事務所に通っていた。新橋で降りると、パトカーや救急車のサイレンがけたたましく鳴っている。何事かと思って地下鉄を使わずに新橋から歩いて事務所に行ったが、その間もサイレンが絶え間なく鳴っていた。重大な事件と知ったのは、確か夕方ぐらいではなかったか。それにしても何の罪もない人を殺傷するなんて言うことは、どんな思想や宗教であっても許されることではない。思想や宗教の原点は大慈、大悲を持って大衆の救済でなければならないだろう。
夜は、手羽元を焼いたものと冷奴で月下独酌。