白雲去来

蜷川正大の日々是口実

小楼一夜春雨を聴く。

2014-03-22 10:49:51 | インポート

三月二十日(木)曇りのち雨。

野村先生は、いわゆる「漢臭」を嫌っていた。安岡正篤らの本はほとんど無視していた。「新右翼の教祖」などとも言われたが先生は、葦津珍彦、三上卓、青木哲、中村武彦、影山正治、毛呂清輝といった本流右翼の思想家や先輩を尊敬し、その薫陶を受けていた。決して「新」などではなく、「真」右翼だったと思っている。先生の俳句集「銀河蒼茫」が、新潮社が選んだ明治、大正、昭和の俳句、短歌の101人の中に選ばれた。

私は、反対に先生の嫌いな漢詩、漢文を勉強した。先生が嫌いならば。私の付け入る隙があるのではないかという姑息な考えからだ。もちろんわずか四年ばかりの付け焼刃の勉強だから、ほとんど身につかなかったが。それでも今日のように、雨の日に浮かぶのは俳句や短歌ではなく、南宋の詩人、陸游の「臨安にて春雨初めて霽(は)る」の一節だ。

 小楼一夜春雨を聴き 深巷明朝杏花を売る。

徹夜して雨の音を聞いていたわけではないが、この時期の雨は寒さを増すので好きではない。それでも考えてみれば一雨ごとに暖かくなるのだから文句も言えないか。愛車が定期点検とリコールのためにディーラー行き。家でじっとしていてもつまらないので、東戸塚駅のダイエーにて買い物のお付き合い。子供たちから一日早い誕生日プレゼントのサプライズ。

P1000156※困ったものだ。(笑)

ニュースによれば、今日は「地下鉄サリン事件」から十九年とか。あの日のことはよく覚えている。まだ事務所が赤坂にあった頃の出来事だった。新橋から地下鉄に乗って赤坂見附(当時は「赤坂山王」の駅はなかった)で下車し、「みすじ通り」にあった事務所に通っていた。新橋で降りると、パトカーや救急車のサイレンがけたたましく鳴っている。何事かと思って地下鉄を使わずに新橋から歩いて事務所に行ったが、その間もサイレンが絶え間なく鳴っていた。重大な事件と知ったのは、確か夕方ぐらいではなかったか。それにしても何の罪もない人を殺傷するなんて言うことは、どんな思想や宗教であっても許されることではない。思想や宗教の原点は大慈、大悲を持って大衆の救済でなければならないだろう。

夜は、手羽元を焼いたものと冷奴で月下独酌。


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お墓詣り。

2014-03-22 09:35:40 | インポート

三月十九日(水)晴れ。

今日は、午後から下の子供が入学する学校の様々な手続きがあって、愚妻に代わって一緒に行かなければならない。午前中は、二人の子供を連れてお墓参りに行った。

先生と両親のお墓のある伊勢原は、東名高速で行くのだが、連休中は渋滞がすごい。それで連休中の墓参を避けて今日にした。良い天気である。海老名のSAにてメロンパンを子供たちに買ってあげてお茶。幸いに高速はガラガラであっという間に着いた。

ご住職にご挨拶をしてからまず先生のお墓に詣でる。日曜日に大悲会の志村君たちが来て、掃除をしてくれていたのでほとんどやることがなかった。先生が亡くなられてから二十年が過ぎたが、大悲会はその二十年間、毎月ご命日前後に墓参を続けている。マネのできることではない。野村一門の中核部隊である大悲会は、こうでなければならない。余計なことをしなくてもよいから、常に先生の思想を学び、ファイティングポーズをとり続けること。たとえ一生出番が来なくとも、その意識を持ち続けることこそが大切なのだ。

P1000144※野村先生のお墓。二十年も大悲会が墓守をしている。

P1000145※先生の代表句の句碑。

その後、私の両親のお墓へ。ここにも花が。志村君たちの好意と感謝する。両親に家族がつつがなく暮らしていることを報告して手を合わせる。野村先生の奥様から電話を頂いた。お墓で入れ違いになったとのこと。午後は、子供と一緒に学校の用事を済ませた。

夜は、古いお付き合いの友人が刺身や揚げ物の差し入れを持って来訪。思い出話に花が咲いて大破・轟沈の夜でした。

P1000148これでは休肝日は作れない。さあー居酒屋、酔狂亭の開店だ。


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