二月二十六日(木)雨。
二・二六の今年は獄のほそ霙。とは野村先生の『銀河蒼茫』の句であるが、今日は朝からの雨。昭和十一年の今日に起きた二・二六事件は、随分と昔の出来事のように感じられるが、歴史の尺度から見ればつい昨日の事でしかない。例えば私は昭和二十六年の早生まれであるから、二・二六事件は私が生まれるわずか十五年前の出来事である。
私の母は若い頃に東京の渋谷にいて、事件を目撃したと言っていた。前日からの雪で出かけることもままならずに部屋にいると、何か外が慌ただしい。叔母と一緒に怖いもの見たさで外に出ると兵隊が沢山いて、娘心にも何か異変が起こったことを感じたと言う。以来、母は雪が積もると」二・二六事件を思い出す」と言っていた。そのせいか私も子供の頃から青年将校らが決起したことの意味など分からずとも、雪が降ると母の「二・二六事件を思い出すねェ-」という言葉が自然と浮かんだ。事件を題材に取った映画「脱出」を見たのは中学生の頃で、事件に関する本を初めて読んだのは昭和四十六年の春、立野信之の「叛乱」だった。以来、二・二六事件に関する本の八割くらいは読み、書棚にある。三島・森田両烈士の「楯の会義挙」と二・二六事件は私の民族派運動の原点でもある。
五時に関内駅にて西村修平氏、桑野繁樹氏、川田敦子女史と待ち合わせた。何のきっかけで今日の一献会となったかは失念したが、気の合う同志との酒席ほど楽しい物はない。しかし考えてみると西村氏のことは随分と昔から知ってはいたが、お会いしたのは数回程度、酒席を共にするのは二回目である。それも個人的に酒酌み交わすのは初めてのこと。桑野さんは、群青忌でお会いして以来、『燃えよ祖国』の読者になって頂き、二百八号では「台湾訪問記」をお寄せ頂いた。川田女史とは初めてで、西村氏のブログの管理などをしている「画家・CG・創作家」の才媛の人。
晴れていれば中華街を案内したかったが、残念ながら雨。「菜香」へ直行しまず一献。残念ながら桑野氏は下戸。独身とのことで、まず一献よりも結婚。昨日同様、時局を肴に紹興酒を楽しんだ。その後「サリーズバー」へ転戦。しばらく飲んでから解散。
二・二六の今年は獄のほそ霙。とは野村先生の『銀河蒼茫』の句であるが、今日は朝からの雨。昭和十一年の今日に起きた二・二六事件は、随分と昔の出来事のように感じられるが、歴史の尺度から見ればつい昨日の事でしかない。例えば私は昭和二十六年の早生まれであるから、二・二六事件は私が生まれるわずか十五年前の出来事である。
私の母は若い頃に東京の渋谷にいて、事件を目撃したと言っていた。前日からの雪で出かけることもままならずに部屋にいると、何か外が慌ただしい。叔母と一緒に怖いもの見たさで外に出ると兵隊が沢山いて、娘心にも何か異変が起こったことを感じたと言う。以来、母は雪が積もると」二・二六事件を思い出す」と言っていた。そのせいか私も子供の頃から青年将校らが決起したことの意味など分からずとも、雪が降ると母の「二・二六事件を思い出すねェ-」という言葉が自然と浮かんだ。事件を題材に取った映画「脱出」を見たのは中学生の頃で、事件に関する本を初めて読んだのは昭和四十六年の春、立野信之の「叛乱」だった。以来、二・二六事件に関する本の八割くらいは読み、書棚にある。三島・森田両烈士の「楯の会義挙」と二・二六事件は私の民族派運動の原点でもある。
五時に関内駅にて西村修平氏、桑野繁樹氏、川田敦子女史と待ち合わせた。何のきっかけで今日の一献会となったかは失念したが、気の合う同志との酒席ほど楽しい物はない。しかし考えてみると西村氏のことは随分と昔から知ってはいたが、お会いしたのは数回程度、酒席を共にするのは二回目である。それも個人的に酒酌み交わすのは初めてのこと。桑野さんは、群青忌でお会いして以来、『燃えよ祖国』の読者になって頂き、二百八号では「台湾訪問記」をお寄せ頂いた。川田女史とは初めてで、西村氏のブログの管理などをしている「画家・CG・創作家」の才媛の人。
晴れていれば中華街を案内したかったが、残念ながら雨。「菜香」へ直行しまず一献。残念ながら桑野氏は下戸。独身とのことで、まず一献よりも結婚。昨日同様、時局を肴に紹興酒を楽しんだ。その後「サリーズバー」へ転戦。しばらく飲んでから解散。