白雲去来

蜷川正大の日々是口実

『決死勤皇 生涯志士』

2015-03-16 14:08:03 | 日記
三月十二日(木)晴れ。

朝から「ピピッとコンロ」が壊れた。東京瓦斯に連絡をして修理を頼んだが、朝食はカセットコンロで調理。昨日、四年前の震災について考えたばかりなのに、「不便」にイラつく。まだ修業が足りないか。

正午近くに同級生の会社を訪問。思いがけずに子供の合格祝いを頂き、昼食もご馳走になる。深謝して事務所へ。四時に帰宅し、子供を連れて松原商店街へ晩酌の肴を買いに行く。魚幸でマグロを買った。これが大当たりで、あっという間になくなってしまった。余り美味しいものを手出すと売れ行きが良くてダメだ。次はもう少し安い物にしよう。

お世話になっている作家の山平重樹さんから『決死勤皇 生涯志士』三浦重周伝(山平重樹著・並木書房・1800円+税)をご恵送頂いた。事務所のポストには「三島由紀夫研究会」からも同じ本が届いていた。三浦重周さんと言っても一般の方はほとんど知らないかもしれないが、民族派の活動家、理論家としては知られた存在で、「憂国忌」を長い間執り行って来た方だ。個人的には、私の主催の勉強会に来て頂いたり、晩年では「日本を糺す会」でもご一緒させて頂いた。その三浦さんが亡くなれたのはのは、今から十年前のことである。詳しくは山平さんの本を読んで頂きたいが、一人の男が節義を全うした生き様が描かれており感動する。


平成17年初冬、風雪にさらされる新潟港の岸壁でひとりの男が割腹自決を遂げた。自らを責め抜くようにして絶命した男は、政治結社重遠社を主宰した「三浦重周」そのひとだった。卓越した理論と高潔な人柄で後進を育て、幾多の国士と刎頸の交わりを重ねていた三浦の自裁は、「信念」を貫くためか、「個性」に殉じたのか…。新左翼運動が猖獗を極める昭和45年、新民族派運動に身を投じた早大生の三浦は「三島事件」に慟哭し、その後、死の直前まで35年にわたって「憂国忌」の活動に深く関わる。本書は「決死勤皇 生涯志士」を座右の銘にした三浦重周の孤高の闘いをたどり、彼を取り巻く多彩な青年群像をいきいきと描く。民族派運動の苦闘の歴史をも俯瞰した著者渾身の力作!(表紙見返しより)

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大震災から四年か。

2015-03-16 13:35:29 | 日記
三月十一日(水)晴れ。東北大震災慰霊の日。

四年前の今日は後輩の結婚式に出席するために友人らと札幌にいた。空港に迎えに来て頂いた山本和八君の車で市内に向かう途中。運転をしていた山本君が「車が揺れていますよ。地震ですかね」と言うので、全く揺れを感じていなかった私たちは、「太り過ぎで眩暈がしたんじゃないの」などと軽口を言い合っていた。

札幌の商店街の中にある「牡蠣小屋」のようなお店に入って安着祝いを行っている時に、お店の備え付けのテレビを見ていた人たちから「おーっ」と驚きの声が上がっている。何かと思ってテレビを見ると、津波が押し寄せている所の緊迫した場面が写っていた。その津波は畑の上を通り、道路を走っている車を今にも飲みこみそうだった。私たちは、テレビの画面に向かって、「早く逃げろ」と叫んだ。

その後、地震に関する各地の様子が映し出され、地震の被害の大きさを知った。横浜のビルの壁が崩れ落ちたり、道路にひびが入った映像を見て、不安になり家族と連絡を取ったが、全く電話が通じない。明日の結婚式を地元の同志諸兄に託して横浜に帰ろうかと思ったが、飛行機会社にも連絡が取れない。そのうちに家族と電話が繋がり、全員の無事を知りホッとした。ホテルに着いても、中々寝付かれず朝まで震災に関するニュースを見ていた。

この震災の教訓。我が家では風呂水を、新しいのと入れ替えるまで捨てない。飲料水をペットボトルで常に半ダースほどストックする。懐中電灯や携帯ラジオを常備。(事務所にも予備を置く)もし何かあったら家族の集合場所を決めた。家さえ潰れなければ、アウトドアー用品が沢山あるので一月ぐらいはテント生活でも不自由しない。まあ最低この程度の「備え」はしている。全国に社友や同志が大勢いるので流通が復活すればそれほど困ることはないが、それもあくまで自宅にいた時のことだ。治にいて乱を忘れず、備えあれば憂いなしである。

追悼祭では、母親を津波で亡くした女性が追悼文を読んでいたが、思わずもらい泣きをしそうになった。大震災で亡くなられた方々にご冥福を。

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