白雲去来

蜷川正大の日々是口実

午前中は、自分を罵った。

2010-06-25 00:07:16 | インポート

六月二十三日(水)雨。

 今日は、最悪の仏滅の日だった。午前十一時から、上野の寛永寺にて、大行社の創立者である清水行之助先生と大行社を再興した岸悦朗先生の墓参があり、雨の中を出かけた。自宅を出て、保土ヶ谷の駅近くになって、携帯電話を家に忘れてきたのに気がつき、自宅にユーターンした。この乗ったタクシーの運ちゃんがトロくて、運転はノロイは、道は間違えるし、おまけに下らんことを延々と話しかける。それでなくともイライラしているのに、話をやめないので、思わず「少し黙って運転しろ」と、怒鳴ってやった。

 

 携帯を取って、再び駅に向かい、到着すれば、今度は「お釣りがないので両替してきます」ときた。金額は二千七百六十円。三千円を出した、その二百四十円がないと言うのだ。感じの良い運転手ならば、急いでいるし、戻ってもらったこともあるので、釣りなど貰わないのだが、こいつには小銭をやるのも勿体ないような気がして、キチント貰った。でもたまたまコンビニの前だから良かったが、もし、そんなものがなく、一万円を出したらどうしたのか。本当にイライラさせられた。

 

 何とかぎりぎり間に合った。遅れて墓参。折角、カメラを持っていったのに写真も撮れなかった。その後、田町の駅近くの会議室で大行社の幹部会議に出席。

 

 終了後は、東京駅から、新幹線で福島へ向った。五時にホテルで隠岐康、人見仁の両氏と待ち合わせている。「やまびこ」という二階建ての新幹線に乗ったのだが、一階に座ってたまげたのは、景色も何も見えず、ただ線路の塀が延々続くのには興ざめもいいところだった。

 

 五時前に、福島着。隠岐、人見の両氏と、常日頃から敬愛している友人らとも合流。福島で一番美味いという焼肉屋で、一献会。ここで何と四人で、あっという間に「富乃宝山」「中々」の四合瓶を三本も空けてしまった。その後、日頃からお世話になっている方が合流して、三軒転戦。最後に、食べたカレーそばは絶品だったが、何しろ飲みすぎていたこともあって、ホテルに戻ってから大変な目にあった。夜中のカレーは、さすがに歳を考えなければ。

 

 それでも、気の合う人たちとの酒席に感激した夜だった。何時に寝たのか、全く憶えていないほど爆沈した。


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アルバムの整理棚が欲しい。

2010-06-24 23:32:44 | インポート

六月二十二日(火)曇り。

 自宅で仕事をしていたら、古い付き合いの友人が昼食を持って来訪。一時間ほど雑談をしていると、今度は、大日本天誠団の内田春雄団長と、友人氏が来訪。不景気と貧乏の自慢大会のようになって、三時過ぎに解散。

 

 夜は、友人と、京急井土ヶ谷駅近くの「はぎまる」という料理屋で一献。「中々」の四合瓶を空けてから、わが家に転戦。十一時近くに解散。

 

 最近、頭を悩めているのが、わが家のアルバムの整理である。写真が好きで、といっても専門的なものではなく、記念写真なのだが、旅行に行けば、大体アルバム一冊くらい写真を撮る。写真だけではなく、泊まったホテルのコースターや領収書、旅行代金の明細書なども一緒に貼っておく。特に、旅行代金の領収書は、前に行った時との差が分かって参考になる。旅のアルバムだけではなく、家族とのもの、子供達のもの、私個人のものなど、二百冊以上はあるのではないだろうか。

 

 殆どは、事務所に持って行ってあるのだが、頼まれて何かの写真を探す時は、それはもう大変である。アルバムというのは、かなり重いので、積んであるダンボールの箱から出し入れするのも一苦労である。また、アルバムも二十年、三十年の時が経つと、当然ながら傷んでくる。余りひどいのは、新しいアルバムを買って貼り直すのだが、年月が経っている分、アルバムに貼りついてしまい、剥がすのが大変なものもある。

 

 それらのアルバムを自宅に置く場所がないのだ。アルバムを見ながら一杯飲む、という趣味のある私としては、出来るだけ手許に置いておきたいのだが、部屋の狭いのはいかんともしがたい。書棚ならぬアルバム棚の欲しい今日この頃である。


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我が家にての一献会。

2010-06-22 13:33:56 | インポート

六月二十一日(月)曇り。

 朝七時にガバッと起きた。今日も曇り空である。家族揃って朝食。全員が出て行った後は、自宅の片付け。コーヒーでほっと一息つけば、はや十一時。今日は、正午から歯医者。一時間ほどで終了して事務所へ。昨日完成した機関誌だが、清水氏の関係者に贈呈することを忘れた分、部数が不足してしまった。事務所に備え付けのものを持ってきてもまだ足らない。近々、増刷しなければならなくなった。

 

 今日は、我が家にて友人との飲み会がある。そのつまみを仕入れるために、横浜橋商店街に買い物に出た。私は、この横浜橋商店街と、洪福寺の近くにある松原商店街の二つが好きだ。下町の商店街が活気を呈しているのを見るだけで、なぜか嬉しくなる。

 

 刺身、豚足、ハマグリ、しんじゃが、辛味大根などを買ってから帰宅。夕方まで、机に向かい、五時からつまみの仕込み。六時に酒友が「佐藤」の麦を下げて来訪。思わず頬がほころぶ。良い酒、良い友、うまい肴。正に至福の時である。十一時近くまで飲んでから解散。

 

 ニュースは、連日、サッカーと相撲の野球賭博のことばかりで、少々うんざりしている。野球賭博が悪いなら、競輪、競馬、パチンコも禁止したらどうか。もし、相撲取りが、合法的だからと言って、競輪場や競馬場に出入りしていたら、マスコミは問題にするに違いあるまい。昔は、相撲取りの女遊びや、博打なんて、知っていても大目に見ていたものだ。

 

 私は、相撲も歌舞伎も芸者も芸能的には同じレベルと思っている。男が芸の道で「男を売り」女も、芸で「女を売る」。大体、何で相撲だけが国技なんだ。良く分からん。


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先生の月命日。愚妻の誕生日。父の日。

2010-06-22 12:44:10 | インポート

六月二十日(日)曇り。

 はっきりしない天気が続いている。この時期は毎日が憂鬱である。早く、スカッとした夏空の日々が来ないかと、首を長くして待っている。

 

 今日は、行事が三つ。まず我が家の事で恐縮だが、今日は愚妻の誕生日。私は、誕生日などどうでも良いのだが、女性は、誕生日や結婚記念日をやけに気にするらしい。いい年をして誕生日などで馬鹿騒ぎをする趣味はないので、ここは簡単にやりすごそうと思っている。

 もう一つは、「父の日」。子供達が、午後からプレゼントの買い物に行くと言っていたが、面倒なので、「気持ちだけで充分」と、断った。

 

 また今日は、亡くなられた野村先生の月命日であり、伊勢原のお寺にお墓参りに行った。愚妻は事務所へ。下の子供はクラブがあるとの事で、珍しく上の子供と二人で出かけた。道路は空いていて、途中海老名のSAで、お約束の「メロンパン」を買った。厚木で降りてから、旧道を通って、お寺に向うのだが、その道は、「花の道」として有名で、今はアジサイが美しい。秋には、彼岸花を見に来るハイカーで道が混雑する。

 

 お寺に着いて、まず先生のお墓に詣でると、まだお線香の煙が漂っている。志村馨君に電話を入れると、小森正春君と共に、来たとの事。どうやら入れ違いになったらしい。子供と一緒に、花を手向けて手を合わせる。

 

 次は、私の両親のお墓へ。ここにも志村、小森両君が来ていて、きれいな「ホタルブクロ」が手向けられていた。有り難いことだ。子供と一緒に、お墓を洗い清め、家族の無病息災をお願いした。

 

 帰宅後は、事務所で機関誌の印刷。社友の松本佳展君来訪して手伝いをして貰った。その後、愚妻の誕生日ケーキを下げて志村馨君親子も来訪。皆で機関誌の製作を手伝って貰い、三時過ぎに終了。遅れていた、機関誌の第176号が完成した。今月号の特集は、先月なくなられた清水常二氏の特集号である。

 

 夜は、わが家で松本佳展君から頂いた誕生日祝いのワインと、志村君からのケーキで愚妻の誕生日を祝う。フクイのカレーで有名な、社友の福井英史さんから、宅急便が届き、何かと思ったら、お祝いのカードと共に、とても美味しそうなロールケーキが二本入っていた。これには、子供達も大喜び。社友の皆さんのお気遣いに、あらためて感謝申し上げます次第です。有難うございました。

Img309 ※最新号です。見本誌をおおくりいたします。ご連絡下さい。


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貴重な音源があった。

2010-06-21 10:02:47 | インポート

六月十九日(土)曇り。

 午前中は、家族で東戸塚のダイエーにて買い物。と言っても、私は荷物持ちに終始した。午後からは、「燃えよ祖国」の最終編集。夕方には第一稿が上がり、最終校正。後は、印刷するのみとなった。

 

 六時より、神奈川県維新協議会(中村憲芳議長)の定例会議に出席。神維協は、県単位の協議体としては、最古のものである。私も、一時期、議長の末席を汚していたこともある。いつもながら、運動や政策に関して活発な意見が交わされている。七時に終了。帰宅。

 

 過日、青山墓地で行なわれた「無名烈士の法要」の際に、司会を務められた小田内陽太氏が、追悼の意味で歌われる「無名戦士を弔う歌」の正確なメロディーが分からないので、「人を恋うる歌」の曲で、その歌を皆で斉唱して下さいと言われ。私達も和した。

 

 私も、その歌の正確な曲を知らないが、以前、亡くなられた大日本生産党の北上清五郎先生が歌っているのを、聞いた事があり、確か、北上先生が横浜にお見えになった折に、テープに録ってあることを思い出した。事務所へ行って、あちらこちらを大捜索。何せ、物持ちが良い反面、整理が悪い。

 

 あった、あったと探し当てた時は、事務所は、荷物が散らかり大変なことになっていた。これをしまうと、また何がどこにあるのか分からなくなってしまう。しかし、いい汗かいた。自宅に戻り、今度はテープをデジタルに変換する作業に苦労した。変換し、パソコンに取り込む機械は、過日、購入したのだが、マスタリング?と言って、音源をクリアーにするソフトを持っていないので、CDに焼いてもアナログ状態で、雑音を拾ってしまい聞きづらい。何分にも酒席ゆえ、私の声や、周りの人の声なども入っていて、一生懸命歌っている北上先生に失礼この上もない。今更ながら平身低頭である。

 

 記録によれば、そのテープを録音したのは、昭和五十七年の六月のこと。一緒に写っている写真を見ると、故阿部勉氏、尾崎士郎先生のご長男の表士氏、当時産経新聞の専務であった山下氏と私。場所は中華街の華都飯店とある。もう二十八年も前の事。

 

 録音したテープには、「無名戦士を弔う歌」「黒竜会節」「憂国志士」の三曲であるが、玄洋社、黒竜会の伝統を継ぐ、北上先生ならではの熱唱である。最近は、カラオケの発達で、くだらん流行の歌は歌っても、明治、大正、昭和と脈々と民族派の先輩達によつて歌い継がれてきた歌が聞かれなくなった。伝統文化を大事に、などと言いつつ、反省しきりである。

 夜は、家飲み。余り酔わないうちに布団に入った。

 


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