白雲去来

蜷川正大の日々是口実

今、「ジャパニズム」が熱い!

2012-03-08 10:55:57 | インポート

三月六日(火)曇り。

 

 暖かい一日だった。久しぶりにコートを着ないで外出した。と言っても外出したのは夜のことで、朝から夕方まで、ガァーッと原稿を書いていた。連載させて頂いている「実話時報」「実話ドキュメント」「大吼」の三本がようやく終わった。少ない脳みそをもうこれ以上絞れないというほど絞って、ヘロヘロになりながら仕事を終えた後は、当然自分へのご褒美・・・。タイミングが良いことに、今日は恒例の「蜷川政経懇」と名前だけは真面目な飲み会がある。

 

 六時過ぎにいそいそと家を出て、我が心のふるさと関内へ。今回の会場は、馴染みのHというお店。九人が集まり、欠席は三人。飲んでいるうちにお店が混んできたので、解散。その後、後輩二人と共に、別の店に転戦。好みの店ではなかったので、シャレた「おでん」がおいしいBERで、軽く食事。その後、二軒転戦してから帰宅。久しぶりの午前様で、当然ながら大破轟沈の夜だった。後輩二人にスペシャル・サンクス。

Img543※保守の牙城か変革の原基か・・・。今、「ジャパニズム」が熱い!様々な保守系の雑誌が出ているが、非常に内容が濃い。是非、ご一読をお願い致します。

Img545_4※徐裕行さんのインタビュー記事。

Img544※先日開催された、維新公論会議の様子が記事になっています。

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瓦礫受入れに反対する者は、山下公園に来てはいけない。

2012-03-06 10:26:14 | インポート

三月五日(月)雨。

 毎日、女漫才師がどうしたこうしたと、下らんニュースばかりで気が滅入る。ではテレビを見なければ良いと思うかもしれないが、生活しているのは私だけではない。しかし、我が家は常識人が多いらしく、テレビをつけて、そんな話題をやっていると、すぐチャンネルを変えてしまう。尼さんにでもなって、少し頭を冷やしなさい。と誰か漫才師に言ってやる人はいないのかねぇー。人の不幸は蜜の味、に群がるワイドショーか。

 

 

 夜、NHKで震災のドキュメントを見た。幼稚園の先生をしている娘が津波で行方不明になった父親が、毎日、娘を探しに行く。その手帳には、「娘と連絡取れず」の文字が、延々と続いている。母親は、「子供が記憶喪失となって、家に戻れずに、何処かで暮らしている」と自分に言い聞かせて、何とか平静を保っている。一年が過ぎて、ようやく娘の死というものを受け入れざるを得なくなり、ついに死亡届を提出する。何の罪もない人たちが、理不尽にも命を奪われてゆく。その人たち一人一人に、上記のようなドラマがあるのだろうが、運命と言ってはそれまでだが、気の毒でならない。

 

 東北地方は、その理不尽な災害から一年を迎えようとしている。天皇陛下は心臓の手術の直後にもかかわらず一周年の慰霊祭への出席を希望しているという。にもかかわらずだ、被災地の瓦礫の受け入れ先がほとんどない。先日も、細野大臣が、瓦礫の受け入れのために現地を訪れた際に、集まった人たちに説明をしようとして車を降りて、「話を聞いてください」と言ったところ、ババアという表現がぴったりの女性が、「いいえ、聞きません」とヒステリックに叫んでいた。戦時中も、こういったババアが、街を歩く女性などに、「派手ですよ。時局を考えなさい」とか言って注意していたのだろう。自分の権利は主張するが、義務は行わない。こんな日本人が多くなった。

 

 震災に遭った地方の瓦礫を受け入れるぐらいのことが何だ。先日も神奈川県での瓦礫受入れに反対す人たちが写っていたが、その中に、最近、反原発で名前を売っている俳優?がいて、抗議の声を上げていた。お前は何様?。反原発は理解できても、日本人として痛みを分け合うという心がないのか。横浜の名所である山下公園は、関東大震災の際に出た瓦礫を利用して公園にした。瓦礫の受け入れに反対する連中は、山下公園に出入りするべからず。

 

 原稿がたまっていたので、休肝日として机に向かっていた。深夜、一段落したので、気分転換にテレビをつけたら、女子サッカーの中継をしていて、ちょうど得点を入れた所であった。サッカーのルールも良く知らないが、最近の「なでしこ」の活躍は嬉しい限りだ。


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板垣君の思い出写真館。

2012-03-05 10:10:00 | インポート

三月四日の続き。

1_3※昭和60年9月。東逗子駅前公園にて、統一戦線義勇軍の同志諸兄と。

1_4※運動終了後に、当時蜷川が住んでいた部屋で直会。

Photo_2※昭和59年1月。靖国神社にて。一緒に写っている板垣君、小早川貞夫先生(中央、国民服の方)、中村太君(羽織袴の人)の三人の方が亡くなられた。

1_5昭和60年8月。岐阜・大夢館にて、花房東洋氏を囲んで。一緒に写っている阿部勉氏(右側の人)も亡くなられた。

9※昭和60年8月、岐阜から下田の弓ヶ浜へ遊んだ。左から板垣君、花房東洋氏、故阿部勉氏。


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板垣哲雄君の七回忌。

2012-03-05 09:55:14 | インポート

三月四日(日)曇り。板垣哲雄君七回忌。

 平成十年の一月十三日に、いわゆるビック・バンに反対して東京証券取引所に拳銃を持って立てこもり、八年の刑を受けて入所中だった板垣君が、戦線復帰を一月後に控えた、平成十八年の今日、肝臓癌にて幽明境を異にした。同志らと彼を荼毘に付し、葬儀を行ってから早いもので満六年、七回忌となる。ごく親しい同志のみに声をかけて墓所である港北区の三会寺で、七回忌の法要を行った。

 集まる同志は少ないが、私は、命のある限り、こうして志半ばにて倒れた縁のある同志の追悼を続けて行きたいと思っている。誰かが行わなければ、忘れらて行ってしまう彼らが気の毒である。

 今にも泣きだしそうな曇り空の下で、法要を行った。一水会、統一戦線義勇軍、大悲会、新風など板垣君とは古い付き合いのある人たちが、彼のお墓に酒を注ぎ、線香を手向けた。終了後は、直会を、藤棚の愛福楼にて行い、二次会はわが酔狂亭にて開催。珍しく、木村三浩氏が大破轟沈であった。

Dscf4132※三会寺に集まった同志の人たちと。

2※昭和61年9月。逗子は池子の反基地闘争にて。左が板垣君。木村会長や針谷議長も当然ながら皆若い。

144※板垣哲雄君の追悼号。


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東京へ。

2012-03-05 08:52:18 | インポート

三月三日(土)晴れ。桜田門外の変、経団連事件記念日。

 

 今日は、桜田門外の変、そして野村先生らが「財界の営利至上主義を撃つ」として、経団連会館を襲撃、占拠した日でもある。いずれ、関係者と相談をして記念集会でも行ってみたいと思っている。

 

 午後から東京行き。新宿の某所にて行われる、暴排条例に反対する集会が行われた。一水会の木村三浩会長と新宿駅にて待ち合わせて会場へ。宮崎学氏や西部邁氏、 辻井喬氏らが登壇してその条例の不備を訴えた。

 終了後は、お世話になっているO会長に食事をごちそうになる。場所は、明治記念館のレストラン。その後は、新宿の寿司屋に転戦。八時近くに解散。ご馳走様でした。

 横浜で降りて「やまと」にて、カメ&アコちゃんたちと合流。少し飲んでから帰宅。


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