白雲去来

蜷川正大の日々是口実

一の酉へ。

2012-11-10 10:57:23 | インポート

十一月八日(木)晴れ。一の酉。

 

今日も良い天気。夕方まで事務所で機関誌「燃えよ祖国」の印刷。今回で一九二号となる。二〇〇号では、読者の方々からお祝いのメッセージを頂くつもり。考えてみれば、二〇〇号と言えば二十年だ。良く出してきたと思っている。初期の頃は「大悲ジャーナル」として出発した。私が大悲会の会長だったからである。その後、大悲会を卒業したが、しばらく名前はそのままにしておいた。平成十四年の新年号から現在の「燃えよ祖国」に変更した。これは、以前、野村事務所で発行していた機関誌の名前をそのまま使用したものだ。

 

創刊は平成三年の一月号。原稿を寄せて頂いたのは、三浦和義、植垣康博、永田洋子、澤地和夫の諸氏。皆、獄中者ばかりだ。その中で、ご健在なのは植垣さんだけだ。七号までは外注していたが、資金不足により、しばらく手作りの物が続いた。当時はパソコンやプリンターも今のように普及していなく、ワープロで原稿を書いて、カラーコピーと普通のコピー機を併用して印刷をしていた。最も、リースなのでそれなりに高くついたが。

 

五十号近く、コピー機を使っての製作が続いたが見かねた友人の義侠で、久しぶりに外注が出来た。「経団連事件特集号」や「河野邸焼き討ち事件特集号」などを出したのもこの頃である。十号を外注印刷したところで、支援者の方が急死。また手作りに戻ったが、この頃には、多少パソコンも使えるようになり、更に、支援者の方から当時、百万円近くもした「カラーレザープリンター」を寄贈して頂いた。しかし雑誌の印刷に必要なソフトはマックの一人勝ちだったので、パソコンやプリンターの変換機などにかなりお金がかかったのを覚えている。

 

その後、パソコンや周辺機械の性能も大幅に良くなり、カラーの「軽印刷機」、「丁合機」、「中綴じ機」を揃え、現在に至る。一番助かったのは、「丁合機」と「中綴じ機」の導入である。それまで手作業で行っていたものが、機械化され時間も十分の一ほどに短縮された。社友のご支援に感謝する次第です。

1※創刊号です。

56※コピー機の頃。

58_2※久しぶりの外注印刷。

90※カラープリンターで印刷をしていた頃。

188※現在のもの。

二十年余。機関誌を購読した頂いております方々に衷心より厚く御礼を申し上げます。今後も鋭意努力いたしますので、変わらぬご支援を伏してお願い申し上げます。


夜は、愚妻と共に酉の市に出かけた。「立冬」の前に「酉の日」が来るときは、「三の酉」まであるが、今年の立冬は七日。一の酉が八日なので、今年は二の酉まで。私は、この酉の市が好きで、毎年必ず出かける。最近は子供たちが付き合ってくれないのが残念だが、屋台を冷やかし、途中で一杯やる。これが楽しい。偶然に林横浜市長とあった。いいね。こういった庶民のお祭り、行事に顔を出すのはいいことだ。

そろそろ帰ろうかと思ったら、盟友の古谷喜久男氏から連絡が入り、久しぶりに曙町の焼き鳥の名店「千屋」で合流。オヤジさんもおかみさんもお元気な様子で、ご無沙汰を詫びてまずは乾杯。その後、三人で「サリーズバー」へ転戦。お馴染みさんばかりで楽しく飲んで十二時近くに解散。

 


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首相が四年も代わらずにいたらたまらん。

2012-11-10 10:03:08 | インポート

十一月七日(水)晴れ。

良い天気が続いている。個人的にはあまり関係のない出来事だが、アメリカの大統領選挙が終了して、オバマが再選された。喜んで良いのか、悲しむべきか良く分からん。私としては共和党のロムニーに勝ってほしかったのだが。まあよその国の大統領選挙よりも、我が国の選挙の方に関心があることは言うまでもない。早く解散してほしいものだ。


オバマを讃える歌を作った。「オバマ、あれま、オバマ遊園地」・・・。


良く、日本では首相が一年おきぐらいに代わると揶揄されるが、考えてみれば、鳩山だの菅、野田みたいな首相に四年も居座られたら大変だ。それこそ国が壊れてしまう。使えない総理ならば一年どころか、三日でもいいからさっさとやめさせた方が良い。もちろん自民党に政権が戻っても同じこと。


今日は、名前だけは立派な蜷川政経懇を吉野町の「一銭」で行った。「鳥鍋」を囲み、大腸癌で入院していたO氏の快気祝いも兼ねた。O氏差し入れの「赤霧島」で乾杯。終了後は有志で関内に転戦。二軒はしごしてから帰宅。


夏は、南大東島のサトウキビ畑で働いている杉山君が台湾に旅している。彼からきれいな絵葉書が届いた。以前、戯れに「金門島の包丁が欲しい」と言ったのを覚えていて、「買ってきます」とあった。申し訳なし。

Photo※杉山君から届いた3Dの絵葉書き。旅先からのこういった気づかいは嬉しいものだ。「戀戀島」とは羨ましい。


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返照閭巷(りょこう)に入る。

2012-11-08 12:38:34 | インポート

十一月六日(火)晴れ。

 

アメリカの大統領選挙が大詰めとなってテレビのニュースでは特番を組んでいる。オバマが勝とうとロムニーが勝とうと、我が国に対する政策には大差がないだろうが、世界の警察官として君臨してきたかつてのアメリカの栄光はもう感じられない。日本も選挙が近いと言われているが、民主党の政権が一日延命すれば、その分、国が劣化して行く。かと言って自民党にも橋下維新にも、さらに石原新党にもこれと言った人物がいない。戦後の太平に酔っていた挙句が、個性的な政治家が育たなかったのだろう。

 

かつてあれほど「金権」だのロッキード事件で「売国奴」呼ばわりしたマスコミが、笑止なことに田中角栄待望論的な論調で、偉大な政治家扱いしている。その娘の文部大臣と娘婿の元防衛大臣。ほとんどブラックユーモアではないか。笑い話ではないが、三十年もすると、管も鳩山も「偉大な政治家だった」と持ち上げるマスコミが出てくるかもしれない。

 

1※昭和48年に学純同との統一ポスター。団体名は、当時私が主宰していた勉強会グループ。

 

尖閣諸島の海域では、海上保安庁が連日、領海侵犯を繰り返し、挑発行為を繰り返している中国の船と戦っている。民主党の政治家は、海保の人たちを激励し、その人たちがスムーズな警備行動をできるように法整備をしようとは思わないのだろうか。過日、台湾の漁船が巡視船に守られて尖閣の海域に来た際、台湾の巡視船から海保の船に対して放水が行われたが、我が国の法律では、漁船に対しては放水はできても、外国の公船には、退去命令以外には対処策がないと言う。これでは命懸けで日本の領海と主権を守っている海保の人たちが可哀そうではないか。次の選挙では、こういったことを公約、争点にしない政治家には絶対票を入れたくないと思っている。

 

夜は、好きな「笹カレイ」の干物で一杯やりつつ「坂の上の雲」の第二部を見た。帝政ロシアの南下政策と我が国に対する恫喝。当時の日本の農村では、主食は麦はまだ良い方で、粟やヒエと言った雑穀を食べていた。そして子供たちは草鞋(わらじ)を履き、はだしの子も多かったそうだ。その国民が、巨大な帝政ロシアと戦った。決して戦争をしろと言うのではなく、日本人の気概を忘れてはならないという事だ。

51jsgaxrr6l_sl500_aa300_1※日本人が元気になるドラマてす。

 


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楓葉荻花、秋索索たり。

2012-11-06 16:52:06 | インポート

十一月五日(月)曇りのち雨。

 天気が悪いので、とりあえずどこにも出かけずに自宅のPCで仕事。私が発行している機関誌「燃えよ祖国」の第一九二号の原稿書きと校正。今月号のメインは、野村先生が昭和五十二年の三月三日に同志らと「財界の経済至上主義を撃つ」として決起した、いわゆる「経団連事件」にて公判中に上梓した「友よ山河を亡ぼすなかれ」の中の「君に泉水博の慟哭が聞こえるか」。サブタイトルは「かけらほども左翼的ではない彼がなぜ日本赤軍へ」である。その本は絶版中で、ほとんど手に入らない。何とか再販しなければと思うのだが・・・。

 

泉水博氏は昭和三十五年、仲間と二人で会社重役夫人を刺殺した強盗殺人事件で逮捕された。その後無期懲役が確定し、千葉刑務所で服役。昭和五十二年九月二十八日に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では、日本政府によって超法規的措置によって釈放され、日本赤軍に参加。その後、国際指名手配された。しかし、釈放後から九年後の昭和六十一年六月七日にフィリピンで旅券法違反で逮捕された。平成七年三月、逃亡前の無期懲役刑に旅券法違反の懲役二年が加算され、現在岐阜刑務所に服役中である。また、岐阜刑務所では所長が変わった際に、面会や手紙などの行為が制限され、これに抗議して泉水氏や支援者が裁判を行っている。救援連絡センター(〒一〇五―〇〇〇四東京都港区新橋二―八―十六・石田ビル五階)によって「泉水国賠通信」が発行され、支援者を募っている。

 

近所のスーパーへ行って晩酌の肴を探すが、ろくな物がなく、結局は頂き物の「ししゃも」で一杯やった。そこに野村先生のご子息の勇介君から電話があって、久しぶりに「やまと」でも。と誘い。九時に待ち合わせて「やまと」へ。勇介君と二人で飲むなんて初めてのことだ。勇介君と初めて会ったのは、彼がまだ小学生の低学年の頃。一緒に釣りに行ったこともあった。そんな彼はもう三十七歳になったと言う。正に感慨無量である。当然ながら思い出話を肴に一献。もちろん野村先生の思い出話も。

 

結局、十時半の閉店近くまでいて解散。いい酒だった。勇介君を保土ヶ谷の駅まで送ってから自宅に戻った。寝る前にもう少し飲んだ。

 

 


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飲まんと欲しても管弦なし。

2012-11-05 23:38:03 | インポート

十一月四日(日)晴れ。

昨日は、早々と大破・轟沈したために、六時に目が覚めた。考えてみれば子供たちに夕飯も作らずに酔っぱらって寝てしまった訳だ。罪滅ぼしにそっと朝食を作り、出来上がった頃に家族を起こし、昨日のことなど何もなかったようにして朝食を食べる。後ろめたさを知っているのか、子供たちが、金沢のアウトレット・モールに行きたいなどと言う。当然逆らえない。

九時半過ぎに、自宅を出て、金沢にできたベイサイドマリーナの横にあるアウトレット・モールとか言う所に着く。正直言って、こういう場所が苦手である。買い物客のほとんどが薄っぺらな中産階級意識に満ち溢れ、個性的なものは何もない。ここに来ることだけが特権と思っていると言った感じがする若い夫婦や家族連れがほとんどだ。年寄りの僻みかもしれないが、そう思ってしまう。

 

食事をしたくとも、ゴミみたいな店ばかりだ。サンドイッチが食べたいと言うので、店に入ったが、大きいので「半分に切って下さい」と頼んだら、できないと言う。若い頃なら有無も言わさずに殴ってやったものだが、こんなとこに来た私が悪いと思ってしまう分別も出来た。犬の餌のようなサンドイッチでも一人前に生意気な金をとる。味も最低だった。


目の前が海で、マリーナにはほとんど手が届かないようなクルーザーが並んでいる。笑わせるのは「関係者以外立ち入り禁止」の看板と「釣り禁止」の看板がこれでもかと貼ってある。海はお前らのものかよ。と怒りが込み上げてきたが、貧乏人の僻みと思われても嫌なので、こらえたが、市長と区長にグサッと言ってやろうかと思った。


それでも何もせずに海を眺めているだけでも癒されるのは、不思議だ。子供たちが洋服を買った支払いだけに付き合って自宅に戻る。帰宅途中でスーパーに寄り夕食の肴を求めるが、こんな時にはろくな物がない。正に仏滅。早めに風呂に入って、ありあわせの物を肴にガアッーと飲んで、眠剤を飲んで九時前には寝てやった。


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