十一月八日(木)晴れ。一の酉。
今日も良い天気。夕方まで事務所で機関誌「燃えよ祖国」の印刷。今回で一九二号となる。二〇〇号では、読者の方々からお祝いのメッセージを頂くつもり。考えてみれば、二〇〇号と言えば二十年だ。良く出してきたと思っている。初期の頃は「大悲ジャーナル」として出発した。私が大悲会の会長だったからである。その後、大悲会を卒業したが、しばらく名前はそのままにしておいた。平成十四年の新年号から現在の「燃えよ祖国」に変更した。これは、以前、野村事務所で発行していた機関誌の名前をそのまま使用したものだ。
創刊は平成三年の一月号。原稿を寄せて頂いたのは、三浦和義、植垣康博、永田洋子、澤地和夫の諸氏。皆、獄中者ばかりだ。その中で、ご健在なのは植垣さんだけだ。七号までは外注していたが、資金不足により、しばらく手作りの物が続いた。当時はパソコンやプリンターも今のように普及していなく、ワープロで原稿を書いて、カラーコピーと普通のコピー機を併用して印刷をしていた。最も、リースなのでそれなりに高くついたが。
五十号近く、コピー機を使っての製作が続いたが見かねた友人の義侠で、久しぶりに外注が出来た。「経団連事件特集号」や「河野邸焼き討ち事件特集号」などを出したのもこの頃である。十号を外注印刷したところで、支援者の方が急死。また手作りに戻ったが、この頃には、多少パソコンも使えるようになり、更に、支援者の方から当時、百万円近くもした「カラーレザープリンター」を寄贈して頂いた。しかし雑誌の印刷に必要なソフトはマックの一人勝ちだったので、パソコンやプリンターの変換機などにかなりお金がかかったのを覚えている。
その後、パソコンや周辺機械の性能も大幅に良くなり、カラーの「軽印刷機」、「丁合機」、「中綴じ機」を揃え、現在に至る。一番助かったのは、「丁合機」と「中綴じ機」の導入である。それまで手作業で行っていたものが、機械化され時間も十分の一ほどに短縮された。社友のご支援に感謝する次第です。
二十年余。機関誌を購読した頂いております方々に衷心より厚く御礼を申し上げます。今後も鋭意努力いたしますので、変わらぬご支援を伏してお願い申し上げます。
夜は、愚妻と共に酉の市に出かけた。「立冬」の前に「酉の日」が来るときは、「三の酉」まであるが、今年の立冬は七日。一の酉が八日なので、今年は二の酉まで。私は、この酉の市が好きで、毎年必ず出かける。最近は子供たちが付き合ってくれないのが残念だが、屋台を冷やかし、途中で一杯やる。これが楽しい。偶然に林横浜市長とあった。いいね。こういった庶民のお祭り、行事に顔を出すのはいいことだ。
そろそろ帰ろうかと思ったら、盟友の古谷喜久男氏から連絡が入り、久しぶりに曙町の焼き鳥の名店「千屋」で合流。オヤジさんもおかみさんもお元気な様子で、ご無沙汰を詫びてまずは乾杯。その後、三人で「サリーズバー」へ転戦。お馴染みさんばかりで楽しく飲んで十二時近くに解散。