挑戦者決定戦で勝った岩根忍女流二段が出産のため産休に入り延期されていた第2期マイナビ女子オープン五番勝負ですが,いよいよ今日,第一局が指されました。対戦成績は矢内理絵子女王が2勝で岩根二段が1勝。
振駒で岩根二段の先手で四間飛車,藤井システム。対する矢内女王の作戦は…。

第1図のように香車の上に玉が乗るのを米長玉といいます。しかしそれはたとえば相矢倉などで戦線から一路遠ざかるために指されるもの。また,天守閣美濃から銀冠に組替えるのもありますが,この将棋は最初から1二へ玉が行くことを目的に指されていますから,思想的背景がどちらとも違うといえるでしょう。よってこれは米長玉というより矢内玉という新作戦のような気がします。この後,先手も持久戦にしたのでさらに不思議な手順で固めていって第2図に。

このくらいはあらかじめ想定しているのかもしれませんが何にしても面白い序盤でした。将棋はここから△8六歩で開戦。途中は先手が優勢だったようですが,逆転して後手が勝ちました。逆転といわれている局面から後の指し方も並べている限り少し不思議に感じられましたが,きちんと勝っていますので正しかったのだと思います。序中盤で時間を使って1分将棋になるのは岩根二段のパターンではありますが,この将棋では時間切迫が響いてしまったようです。
矢内女王が先勝。第二局は来月2日です。
帰納法的思考によって僕たちにもたらされる仮説は,それ自体を真理か虚偽,すなわち十全な観念か混乱した観念かで分けるならば,すべからく混乱した観念なのであって,虚偽であるということになります。しかしこのことは,僕たちは仮説を構築することによって真理に到達することができない,現在の考察に即してもっと限定的にいうなら,正しい原因に到達することができないということを意味するものではありません。実際,こうした仮説は,ある場合には正しいといわれることさえあるでしょう。このあたり,非常にややこしいですが,スピノザの哲学に矛盾するものではないと僕は考えます。
ある事柄が真理であるか虚偽であるかということは,形相的な事物についていわれるのではなく,客観的な事物,つまり事物の観念についていわれます。つまり真理か虚偽かというのは認識の問題であり,形相的には,必然的であるか不可能であるかという分類があるだけです。よって,真理か虚偽かは認識の問題であるといえます。第二部定理三五証明でスピノザがいっていることは,誤謬を対象にしてはいますがこれと同じことだと僕は思います。
次に,第二部定理四三が示しているのは,ある人間の精神のうちにある真理があるなら,それが真理であることをその人間は知るということです。よって,もしもこの条件が成立しないなら,その認識はすべて真理ではない,つまり虚偽であるということになるでしょう。そこでもしも人間の精神のうちに,それが真理であるか虚偽であるかが分からないようなある観念があるなら,その観念は真理である条件を満たしていないので虚偽であるということになります。ところで,仮説というのは,それが真理であるか虚偽であるかが判然としないから仮説といわれているのです。よってこの限りにおいて,仮説はすべからく虚偽であるということになるでしょう。ここから僕たちが真理に到達するためには,まだ条件が必要であるということになります。
振駒で岩根二段の先手で四間飛車,藤井システム。対する矢内女王の作戦は…。

第1図のように香車の上に玉が乗るのを米長玉といいます。しかしそれはたとえば相矢倉などで戦線から一路遠ざかるために指されるもの。また,天守閣美濃から銀冠に組替えるのもありますが,この将棋は最初から1二へ玉が行くことを目的に指されていますから,思想的背景がどちらとも違うといえるでしょう。よってこれは米長玉というより矢内玉という新作戦のような気がします。この後,先手も持久戦にしたのでさらに不思議な手順で固めていって第2図に。

このくらいはあらかじめ想定しているのかもしれませんが何にしても面白い序盤でした。将棋はここから△8六歩で開戦。途中は先手が優勢だったようですが,逆転して後手が勝ちました。逆転といわれている局面から後の指し方も並べている限り少し不思議に感じられましたが,きちんと勝っていますので正しかったのだと思います。序中盤で時間を使って1分将棋になるのは岩根二段のパターンではありますが,この将棋では時間切迫が響いてしまったようです。
矢内女王が先勝。第二局は来月2日です。
帰納法的思考によって僕たちにもたらされる仮説は,それ自体を真理か虚偽,すなわち十全な観念か混乱した観念かで分けるならば,すべからく混乱した観念なのであって,虚偽であるということになります。しかしこのことは,僕たちは仮説を構築することによって真理に到達することができない,現在の考察に即してもっと限定的にいうなら,正しい原因に到達することができないということを意味するものではありません。実際,こうした仮説は,ある場合には正しいといわれることさえあるでしょう。このあたり,非常にややこしいですが,スピノザの哲学に矛盾するものではないと僕は考えます。
ある事柄が真理であるか虚偽であるかということは,形相的な事物についていわれるのではなく,客観的な事物,つまり事物の観念についていわれます。つまり真理か虚偽かというのは認識の問題であり,形相的には,必然的であるか不可能であるかという分類があるだけです。よって,真理か虚偽かは認識の問題であるといえます。第二部定理三五証明でスピノザがいっていることは,誤謬を対象にしてはいますがこれと同じことだと僕は思います。
次に,第二部定理四三が示しているのは,ある人間の精神のうちにある真理があるなら,それが真理であることをその人間は知るということです。よって,もしもこの条件が成立しないなら,その認識はすべて真理ではない,つまり虚偽であるということになるでしょう。そこでもしも人間の精神のうちに,それが真理であるか虚偽であるかが分からないようなある観念があるなら,その観念は真理である条件を満たしていないので虚偽であるということになります。ところで,仮説というのは,それが真理であるか虚偽であるかが判然としないから仮説といわれているのです。よってこの限りにおいて,仮説はすべからく虚偽であるということになるでしょう。ここから僕たちが真理に到達するためには,まだ条件が必要であるということになります。