5日の大垣記念の決勝。並びは近藤-石井-新田-林-萩原の並びで結束した南関東,村上に浦川で,浅井と井上が単騎という偏った構成。
村上がスタートを取って前受け。3番手に浅井,4番手に井上で5番手以降に南関東。早めに車間を開けていた近藤が残り2周のホームから発進。バックで村上が抵抗の構えを見せるも5人が出きって打鐘。引いた村上がすぐに発進しましたが,直線出口で石井が早くも番手捲り。村上はそれでも追い上げようとしましたが,林の牽制もあってバックで力尽き,浅井はその外を捲ろうとしたので苦しくなってしまい南関東勢の勝負に。新田は無風で回った形ですが,意外なほど詰め寄れず,石井の優勝。マークの新田が半車身差で2着。林も半車身差で続いて南関東の上位独占。4着にも萩原が続いています。
優勝した千葉の石井秀治選手は記念競輪初優勝。たとえば石井に林がマークして静岡は別に戦うとか,新田の後ろを萩原が回って林は村上をマークするというような並びもあり得たと思いますが,地区で結束。5人並んでほかがふたりと単騎がひとりずつですから圧倒的に有利。その有利さと近藤の頑張りに助けられた形での優勝。ですが自力でも記念競輪を優勝するくらいの力はつけているものと思います。86期ですが年齢的にはそれほど若いわけでなく,これから2年くらいが選手として本当の勝負期になるのではないでしょうか。
受動的な自己満足であれ理性ratioから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoであれ,悲しみの処方箋に示したような仕方で自己満足が発生するなら,これはさらに別種の自己満足を発生させることになると僕は考えます。
ある人間が別の人間の幸せの原因となったと認識するとき,その人間はその認識自体によって自己満足を感じることになります。しかし人間の関係というのは,この場合の自分自身と喜びlaetitiaを感じた相手との関係だけが存在するものではありません。どんな人間も,この関係には直接的に関与しない,別の人間との関係を有します。そこでその第三者的なだれかを,自己満足を得た当人が,その自己満足を得るに至った関係と関連付けて認識したとします。するとその第三者は,自己満足を得た人間を称賛する人間として認識されることになります。第三部定理九のうちには,他人の喜びの原因となることは,理性的な場合にもそうではない場合にも,称賛に値する事柄であるということが含まれるからです。
すると自己満足を得た当人の認識のうちに,他者によって称賛される自分自身の認識というのが生じてきます。これはスピノザが第三部諸感情の定義三〇において,名誉gloriaと名付けている感情で,自己満足の一種です。
「名誉とは他人から賞賛されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びである」。
観念対象ideatumとなっているものが,称賛されること自体であるか,それとも称賛に値する行為であるかという点で,僕の説明とスピノザの定義Definitioは異なっています。ただ,この場合だと他者からの称賛を受けるという認識の前提には,称賛に値する自身の行為の観念がありますから,結果的に同じになることを確認してください。そしてどちらの場合にもそれが自己満足の一種になっていること,このことが重要ですので,それも同時に確認してください。
名誉という感情が自己満足の一種と規定されていることがなぜ重要なのかといえば,それはこの定義のうちに,名誉というのは他者からの称賛それ自体ではないということが含意されているからです。名誉とは,称賛される自分自身および自分自身の行為の認識のことなのです。
村上がスタートを取って前受け。3番手に浅井,4番手に井上で5番手以降に南関東。早めに車間を開けていた近藤が残り2周のホームから発進。バックで村上が抵抗の構えを見せるも5人が出きって打鐘。引いた村上がすぐに発進しましたが,直線出口で石井が早くも番手捲り。村上はそれでも追い上げようとしましたが,林の牽制もあってバックで力尽き,浅井はその外を捲ろうとしたので苦しくなってしまい南関東勢の勝負に。新田は無風で回った形ですが,意外なほど詰め寄れず,石井の優勝。マークの新田が半車身差で2着。林も半車身差で続いて南関東の上位独占。4着にも萩原が続いています。
優勝した千葉の石井秀治選手は記念競輪初優勝。たとえば石井に林がマークして静岡は別に戦うとか,新田の後ろを萩原が回って林は村上をマークするというような並びもあり得たと思いますが,地区で結束。5人並んでほかがふたりと単騎がひとりずつですから圧倒的に有利。その有利さと近藤の頑張りに助けられた形での優勝。ですが自力でも記念競輪を優勝するくらいの力はつけているものと思います。86期ですが年齢的にはそれほど若いわけでなく,これから2年くらいが選手として本当の勝負期になるのではないでしょうか。
受動的な自己満足であれ理性ratioから生じる自己満足acquiescentia in se ipsoであれ,悲しみの処方箋に示したような仕方で自己満足が発生するなら,これはさらに別種の自己満足を発生させることになると僕は考えます。
ある人間が別の人間の幸せの原因となったと認識するとき,その人間はその認識自体によって自己満足を感じることになります。しかし人間の関係というのは,この場合の自分自身と喜びlaetitiaを感じた相手との関係だけが存在するものではありません。どんな人間も,この関係には直接的に関与しない,別の人間との関係を有します。そこでその第三者的なだれかを,自己満足を得た当人が,その自己満足を得るに至った関係と関連付けて認識したとします。するとその第三者は,自己満足を得た人間を称賛する人間として認識されることになります。第三部定理九のうちには,他人の喜びの原因となることは,理性的な場合にもそうではない場合にも,称賛に値する事柄であるということが含まれるからです。
すると自己満足を得た当人の認識のうちに,他者によって称賛される自分自身の認識というのが生じてきます。これはスピノザが第三部諸感情の定義三〇において,名誉gloriaと名付けている感情で,自己満足の一種です。
「名誉とは他人から賞賛されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びである」。
観念対象ideatumとなっているものが,称賛されること自体であるか,それとも称賛に値する行為であるかという点で,僕の説明とスピノザの定義Definitioは異なっています。ただ,この場合だと他者からの称賛を受けるという認識の前提には,称賛に値する自身の行為の観念がありますから,結果的に同じになることを確認してください。そしてどちらの場合にもそれが自己満足の一種になっていること,このことが重要ですので,それも同時に確認してください。
名誉という感情が自己満足の一種と規定されていることがなぜ重要なのかといえば,それはこの定義のうちに,名誉というのは他者からの称賛それ自体ではないということが含意されているからです。名誉とは,称賛される自分自身および自分自身の行為の認識のことなのです。