地元勢が大挙して進出した千葉記念の決勝。並びは菊地に加藤,石井-海老根-成清-中村-鈴木の千葉で布居と荒井は単騎。
やや牽制になりましたが,スタートを取ったのは布居。ただ,バックで外から下がり,2番手にいた加藤が前を取る形になったので,前受けは菊地に。3番手に荒井,4番手に布居で5番手から石井という周回に。残り2周のバックになってようやく石井が上昇。すでに打鐘が入っていたので菊地は下げられず,海老根のインで粘りました。ここを布居が単騎でかまして先行。大きく離れながら海老根が追い,成清,石井,加藤,菊地という隊列に。徐々に差を詰めていった海老根が直線で布居を捕え,外から成清,ふたりの中を割った菊地での優勝争いに。成清が菊地の急襲を凌いで優勝。菊地が4分の1車輪差で2着。第二先行になった海老根は4分の3車輪差の3着まで。
優勝した千葉の成清貴之選手はこれが記念競輪初優勝。僕は石井が駆けて海老根が番手捲り,それで海老根と成清の争いになると推理していましたが,思ってもみない展開に。石井もさすがに自滅するような先行をする格の選手ではなくなっているということなのでしょう。揃った地元勢から優勝者が出てほっとしたところでしょうが,布居も大きな見せ場を作って素晴らしい走りだったと思います。
このブログの第一の主眼点は哲学的考察です。この観点から,第三部定理三〇には,説明を加えておかなければならない点が残されています。そしてそれは,説明している事象との関連性からも必要です。
定理Propositioの前半部分,喜びlaetitiaに関していわれていることを,僕は第三部諸感情の定義三〇の名誉gloriaという感情affectusとほぼ同一視します。ほぼというのは,例外が生じ得るからです。その例外はふたつあります。ひとつは,この観念ideaに,自身の行為の観念が伴っていないという場合です。人は,自分の存在existentiaそれ自体が,他者の喜びの原因になっていると表象するimaginariことが不可能であるとはいえません。この場合は第三部諸感情の定義三〇の要件を満たしません。よってそれを僕は,名誉ではなく,名誉もその一種であるとみることもできる自己満足acquiescentia in se ipsoとみなします。
もうひとつの例外が,行為の観念は伴っていても,それは称賛に値するとは認識していない場合です。このときは,場合によっては不名誉という感情を抱くことがあるということは,すでに説明した通りですので,それに関してはここでは繰り返しません。ただ,たとえば自分にとっては別に何でもないような行為であったのに,それによって他者から感謝されて,喜びを感じるというような場合,このような場合というのは往々にして生じるように僕は感じますが,そのような喜びに関しても,別にそれが称賛に値するとは認識していない以上,名誉とは僕はみなしません。しかしこれが喜びであることは間違いなく,これもまた自己満足であると僕はみなします。
定理の後半部分でいわれている感情は,名誉の反対感情に該当します。それは,称賛に対して非難であり,喜びに対して悲しみtristitiaであるからです。こうした感情をスピノザは第三部諸感情の定義三一で,恥辱pudorと命名しています。
「恥辱とは他人から非難されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った悲しみである」。
僕はここまであたかも名誉の反対感情として不名誉といってきましたが,名誉の反対感情は恥辱であり,不名誉ではありません。不名誉は他者の精神mensのうちにある観念の表象imaginatioがないと発生しませんが,名誉と恥辱はそうではないからです。
やや牽制になりましたが,スタートを取ったのは布居。ただ,バックで外から下がり,2番手にいた加藤が前を取る形になったので,前受けは菊地に。3番手に荒井,4番手に布居で5番手から石井という周回に。残り2周のバックになってようやく石井が上昇。すでに打鐘が入っていたので菊地は下げられず,海老根のインで粘りました。ここを布居が単騎でかまして先行。大きく離れながら海老根が追い,成清,石井,加藤,菊地という隊列に。徐々に差を詰めていった海老根が直線で布居を捕え,外から成清,ふたりの中を割った菊地での優勝争いに。成清が菊地の急襲を凌いで優勝。菊地が4分の1車輪差で2着。第二先行になった海老根は4分の3車輪差の3着まで。
優勝した千葉の成清貴之選手はこれが記念競輪初優勝。僕は石井が駆けて海老根が番手捲り,それで海老根と成清の争いになると推理していましたが,思ってもみない展開に。石井もさすがに自滅するような先行をする格の選手ではなくなっているということなのでしょう。揃った地元勢から優勝者が出てほっとしたところでしょうが,布居も大きな見せ場を作って素晴らしい走りだったと思います。
このブログの第一の主眼点は哲学的考察です。この観点から,第三部定理三〇には,説明を加えておかなければならない点が残されています。そしてそれは,説明している事象との関連性からも必要です。
定理Propositioの前半部分,喜びlaetitiaに関していわれていることを,僕は第三部諸感情の定義三〇の名誉gloriaという感情affectusとほぼ同一視します。ほぼというのは,例外が生じ得るからです。その例外はふたつあります。ひとつは,この観念ideaに,自身の行為の観念が伴っていないという場合です。人は,自分の存在existentiaそれ自体が,他者の喜びの原因になっていると表象するimaginariことが不可能であるとはいえません。この場合は第三部諸感情の定義三〇の要件を満たしません。よってそれを僕は,名誉ではなく,名誉もその一種であるとみることもできる自己満足acquiescentia in se ipsoとみなします。
もうひとつの例外が,行為の観念は伴っていても,それは称賛に値するとは認識していない場合です。このときは,場合によっては不名誉という感情を抱くことがあるということは,すでに説明した通りですので,それに関してはここでは繰り返しません。ただ,たとえば自分にとっては別に何でもないような行為であったのに,それによって他者から感謝されて,喜びを感じるというような場合,このような場合というのは往々にして生じるように僕は感じますが,そのような喜びに関しても,別にそれが称賛に値するとは認識していない以上,名誉とは僕はみなしません。しかしこれが喜びであることは間違いなく,これもまた自己満足であると僕はみなします。
定理の後半部分でいわれている感情は,名誉の反対感情に該当します。それは,称賛に対して非難であり,喜びに対して悲しみtristitiaであるからです。こうした感情をスピノザは第三部諸感情の定義三一で,恥辱pudorと命名しています。
「恥辱とは他人から非難されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った悲しみである」。
僕はここまであたかも名誉の反対感情として不名誉といってきましたが,名誉の反対感情は恥辱であり,不名誉ではありません。不名誉は他者の精神mensのうちにある観念の表象imaginatioがないと発生しませんが,名誉と恥辱はそうではないからです。