スピノザ主義を肯定的に評価することによって,汎神論論争におけるレッシングの立場を守ろうとしたメンデルスゾーンの選択は,ヤコービの戦略によるところであったと僕は考えています。でも,実際に争われたヤコービとメンデルスゾーンの論争は,あまり噛み合ったものにはなっていなかったと僕は評価しています。というのは,ヤコービは神学的観点を保守する反スピノザ主義の立場ではあったのですが,スピノザ主義のよき理解者ではあったのに対し,メンデルスゾーンはスピノザ主義の本質的な部分に関わる理解が,少なくともヤコービほどは深くなかったし,もっといえば誤りを含んでいたのではないかと思えるからです。
典型的な部分を紹介しましょう。1784年8月1日付で,メンデルスゾーンはヤコービに手紙を送っています。この中でメンデルスゾーンは,スピノザ主義の神は善意によって働く神であるという主旨のことをいっています。しかしこれはかつてみたように,ライプニッツ主義の神なのであって,スピノザ主義の神とは程遠い存在です。ですから,もしもメンデルスゾーンが,スピノザ主義の神についてこのような誤解をしていなかったとしたら,それでもメンデルスゾーンがスピノザ主義を守るという立場を選択することができたのか,かなり怪しい部分を含んでいるのではないかと僕には思えるのです。
これに対してヤコービは,スピノザ主義の神が神自身の本性の必然性のみによって働くということ,そこには善意はもとより,あらゆる意味での意志さえ存在しないということをよく理解していました。いい換えれば第一部定理三二系一でスピノザが神は意志の自由によっては作用しないということの真意を明確に理解していました。これは,ヤコービが反スピノザの立場を選択したという点から明白です。というのはヤコービとライプニッツの考え方にはよく似たところがあって,神がこのように規定されてしまうと,神を運命的な存在と規定してしまうことになり,それは両者が保守するべきだと考えた,キリスト教的神学における神のあるべき姿と著しくかけ離れてしまうからです。
ヤコービもライプニッツも,スピノザ主義をよく理解できたから,それに反対する立場を選択したのです。汎神論論争は,この前提の上に理解する必要があると思います。
1650年の時点でメシアの再来が近付いていると考えていたメナセ・ベン・イスラエルは,自身の計画を実行に移すため,1655年にイギリスに渡りました。そしてクロムウェルに会ったのです。
このときの模様が『ある哲学者の人生』で紹介されています。その中に,メナセがクロムウェルに対して,ユダヤ人が住む国の君主は,ユダヤ人の商才で大きな利益をあげることができるという主旨のことを言ったというのがあります。バルーフが用いた譬えを使うなら,メナセはユダヤ人がクロムウェルの「帽子を飾る羽」になるであろうと言ったことになります。
ここの部分が,ジャン・ルイの手紙の記述との関係で,僕には興味深いのです。1650年にバルーフが,クロムウェルがユダヤ人の商才に期待しているのではないかという主旨の質問をメナセにしたとき,メナセはウリエル・ダ・コスタのようになりたいのかとまで言って少年を叱りつけているからです。
時が流れることによって,メナセのクロムウェルに対する考え方に変化があったのだとしたら,つまり,クロムウェルが単にユダヤ人の宗教的態度に敬意を払っているだけではないと考え直すようになったのであれば,その契機として,少年の質問があったと考えることができないこともありません。また,実際にはメナセも,クロムウェルがユダヤ人の商才を国家の繁栄のために利用しているのではないかと,1950年の時点では秘かに考えていたところ,それをずばりと少年に言い当てられたために,思わずかっとなってその少年を怒鳴ってしまったのだと考えることができないでもありません。真相を明らかにすることはできませんが,これらふたつの部分は明らかにリンクしていると僕には思えましたので,当面の課題とは無関係でしたが,ここにも書いてみたくなったのです。
クロムウェル自身はメナセをとても気に入ったようです。しかし世論は,ユダヤ人のイギリス入国には好意的でなかったようです。クロムウェルが開いた会議は踊ってしまい,メナセの夢は実現せず,1957年にオランダに帰国しています。メナセの渡英中に,スピノザは破門されたのでした。
典型的な部分を紹介しましょう。1784年8月1日付で,メンデルスゾーンはヤコービに手紙を送っています。この中でメンデルスゾーンは,スピノザ主義の神は善意によって働く神であるという主旨のことをいっています。しかしこれはかつてみたように,ライプニッツ主義の神なのであって,スピノザ主義の神とは程遠い存在です。ですから,もしもメンデルスゾーンが,スピノザ主義の神についてこのような誤解をしていなかったとしたら,それでもメンデルスゾーンがスピノザ主義を守るという立場を選択することができたのか,かなり怪しい部分を含んでいるのではないかと僕には思えるのです。
これに対してヤコービは,スピノザ主義の神が神自身の本性の必然性のみによって働くということ,そこには善意はもとより,あらゆる意味での意志さえ存在しないということをよく理解していました。いい換えれば第一部定理三二系一でスピノザが神は意志の自由によっては作用しないということの真意を明確に理解していました。これは,ヤコービが反スピノザの立場を選択したという点から明白です。というのはヤコービとライプニッツの考え方にはよく似たところがあって,神がこのように規定されてしまうと,神を運命的な存在と規定してしまうことになり,それは両者が保守するべきだと考えた,キリスト教的神学における神のあるべき姿と著しくかけ離れてしまうからです。
ヤコービもライプニッツも,スピノザ主義をよく理解できたから,それに反対する立場を選択したのです。汎神論論争は,この前提の上に理解する必要があると思います。
1650年の時点でメシアの再来が近付いていると考えていたメナセ・ベン・イスラエルは,自身の計画を実行に移すため,1655年にイギリスに渡りました。そしてクロムウェルに会ったのです。
このときの模様が『ある哲学者の人生』で紹介されています。その中に,メナセがクロムウェルに対して,ユダヤ人が住む国の君主は,ユダヤ人の商才で大きな利益をあげることができるという主旨のことを言ったというのがあります。バルーフが用いた譬えを使うなら,メナセはユダヤ人がクロムウェルの「帽子を飾る羽」になるであろうと言ったことになります。
ここの部分が,ジャン・ルイの手紙の記述との関係で,僕には興味深いのです。1650年にバルーフが,クロムウェルがユダヤ人の商才に期待しているのではないかという主旨の質問をメナセにしたとき,メナセはウリエル・ダ・コスタのようになりたいのかとまで言って少年を叱りつけているからです。
時が流れることによって,メナセのクロムウェルに対する考え方に変化があったのだとしたら,つまり,クロムウェルが単にユダヤ人の宗教的態度に敬意を払っているだけではないと考え直すようになったのであれば,その契機として,少年の質問があったと考えることができないこともありません。また,実際にはメナセも,クロムウェルがユダヤ人の商才を国家の繁栄のために利用しているのではないかと,1950年の時点では秘かに考えていたところ,それをずばりと少年に言い当てられたために,思わずかっとなってその少年を怒鳴ってしまったのだと考えることができないでもありません。真相を明らかにすることはできませんが,これらふたつの部分は明らかにリンクしていると僕には思えましたので,当面の課題とは無関係でしたが,ここにも書いてみたくなったのです。
クロムウェル自身はメナセをとても気に入ったようです。しかし世論は,ユダヤ人のイギリス入国には好意的でなかったようです。クロムウェルが開いた会議は踊ってしまい,メナセの夢は実現せず,1957年にオランダに帰国しています。メナセの渡英中に,スピノザは破門されたのでした。