20日に弥彦競輪場で行われた第24回寛仁親王牌の決勝。並びは新田-渡辺-伏見-菊地の北日本,武田-神山の関東,脇本-金子-園田の西日本。
渡辺がスタートを取って新田の前受け。5番手に武田,7番手に脇本で周回。残り3周のバックから脇本が上昇の構えをみせると,武田も上昇。残り2周のホームの入口あたりで新田を叩いて前に。これを脇本が抑えにいくと武田は下げず,金子のインで番手戦。ちょうどコーナーに掛かるところでもあり,あっさりと武田が番手を奪取。バックで脇本がスピードアップしたので武田が2番手,金子は4番手に入り,新田が6番手の一列棒状で打鐘。このままの隊列でバックまで進み,ようやく新田が発進。しかし追いつく前に金子がコーナーに差し掛かるところから自力で捲り,さらに武田も番手から発進。脇本と武田の中を割った神山と武田が競るところ,武田と金子の間に進路を取った園田が突き抜けて優勝。4分の3車輪差の2着に武田。半車輪差の3着に神山。
優勝した福岡の園田匠選手は2010年11月に松阪記念を優勝して以来,およそ4年8ヶ月ぶりのグレードレース制覇。ビッグは初優勝。武田があっさりと番手を奪い,下げた金子が自力を出し,直線の入口で進路がきれいに開いたための優勝ですが,さすがにこの結果は予想しにくかったです。脇本は先行意欲の高い選手で,先行はあり得ると思っていましたが,4人で結束した北日本がじっくりと構えたのは意外。まさか最終ホームで一列棒状の展開になるとは思ってもみませんでした。踏むタイミングがなかったのかもしれませんが,新田が少しばかり前の様子を窺い過ぎたのではないかと思います。
スピノザとボイルは直接的なやり取りがなかったですから,仮にロバート・ボイルがレーウェンフックを知っていたとしても,スピノザとの仲介者にはなり得ません。ただ,スピノザがボイルのような,この時代を代表する自然科学者のひとりと,オルデンブルクの通訳を交えてではあれ,議論をしていたことは,スピノザがレーウェンフックを知っていたとしてもおかしくはないと判断する材料とはなり得るでしょう。『スピノザ往復書簡集』書簡二十六で,スピノザが顕微鏡による観察に関する書に言及している点も,同様にその材料になり得ると僕は考えます。
現代思想1987年9月号には,高山宏の「豚のロケーション」という論文が掲載されています。この論文は,同じ年に同じオランダで産まれた3人,すなわちスピノザとフェルメールとレーウェンフックの3人が成し遂げたことには,明らかに親和性があるということを示そうとしたものです。この論文では3人の出会いについては何も語られていません。ただ,僕が知る限りでは,ここでしようとしている考察に最も関連性が深いものです。また,『フェルメールとスピノザ』で,マルタンがスピノザの哲学とフェルメールの絵画に親和性があると主張していることともこの論文は関連しているといえるでしょう。僕は絵画の鑑賞能力には欠けるので,ここでもその内容を評価することはできませんが,「豚のロケーション」が『フェルメールとスピノザ』の重要な参考資料になることは間違いないであろうと思います。
高山によれば,レーウェンフックが顕微鏡によって数多くの発見を明らかにしてから,ヨーロッパの多くの貴族がレーウェンフックの研究拠点であったデルフトを訪問するようになったそうです。あるいはコンスタンティンも,そうした貴族のひとりであった可能性があると僕は推測します。ただ,これはあくまでも僕の推測なのであり,コンスタンティンとスピノザが会ったことがあるのは確実視できますが,コンスタンティンとレーウェンフックについては,僕には確定できる材料はありません。しかし確実にこのふたりに会った著名人が存在します。それがライプニッツです。
渡辺がスタートを取って新田の前受け。5番手に武田,7番手に脇本で周回。残り3周のバックから脇本が上昇の構えをみせると,武田も上昇。残り2周のホームの入口あたりで新田を叩いて前に。これを脇本が抑えにいくと武田は下げず,金子のインで番手戦。ちょうどコーナーに掛かるところでもあり,あっさりと武田が番手を奪取。バックで脇本がスピードアップしたので武田が2番手,金子は4番手に入り,新田が6番手の一列棒状で打鐘。このままの隊列でバックまで進み,ようやく新田が発進。しかし追いつく前に金子がコーナーに差し掛かるところから自力で捲り,さらに武田も番手から発進。脇本と武田の中を割った神山と武田が競るところ,武田と金子の間に進路を取った園田が突き抜けて優勝。4分の3車輪差の2着に武田。半車輪差の3着に神山。
優勝した福岡の園田匠選手は2010年11月に松阪記念を優勝して以来,およそ4年8ヶ月ぶりのグレードレース制覇。ビッグは初優勝。武田があっさりと番手を奪い,下げた金子が自力を出し,直線の入口で進路がきれいに開いたための優勝ですが,さすがにこの結果は予想しにくかったです。脇本は先行意欲の高い選手で,先行はあり得ると思っていましたが,4人で結束した北日本がじっくりと構えたのは意外。まさか最終ホームで一列棒状の展開になるとは思ってもみませんでした。踏むタイミングがなかったのかもしれませんが,新田が少しばかり前の様子を窺い過ぎたのではないかと思います。
スピノザとボイルは直接的なやり取りがなかったですから,仮にロバート・ボイルがレーウェンフックを知っていたとしても,スピノザとの仲介者にはなり得ません。ただ,スピノザがボイルのような,この時代を代表する自然科学者のひとりと,オルデンブルクの通訳を交えてではあれ,議論をしていたことは,スピノザがレーウェンフックを知っていたとしてもおかしくはないと判断する材料とはなり得るでしょう。『スピノザ往復書簡集』書簡二十六で,スピノザが顕微鏡による観察に関する書に言及している点も,同様にその材料になり得ると僕は考えます。
現代思想1987年9月号には,高山宏の「豚のロケーション」という論文が掲載されています。この論文は,同じ年に同じオランダで産まれた3人,すなわちスピノザとフェルメールとレーウェンフックの3人が成し遂げたことには,明らかに親和性があるということを示そうとしたものです。この論文では3人の出会いについては何も語られていません。ただ,僕が知る限りでは,ここでしようとしている考察に最も関連性が深いものです。また,『フェルメールとスピノザ』で,マルタンがスピノザの哲学とフェルメールの絵画に親和性があると主張していることともこの論文は関連しているといえるでしょう。僕は絵画の鑑賞能力には欠けるので,ここでもその内容を評価することはできませんが,「豚のロケーション」が『フェルメールとスピノザ』の重要な参考資料になることは間違いないであろうと思います。
高山によれば,レーウェンフックが顕微鏡によって数多くの発見を明らかにしてから,ヨーロッパの多くの貴族がレーウェンフックの研究拠点であったデルフトを訪問するようになったそうです。あるいはコンスタンティンも,そうした貴族のひとりであった可能性があると僕は推測します。ただ,これはあくまでも僕の推測なのであり,コンスタンティンとスピノザが会ったことがあるのは確実視できますが,コンスタンティンとレーウェンフックについては,僕には確定できる材料はありません。しかし確実にこのふたりに会った著名人が存在します。それがライプニッツです。