現実的に存在する人間は,生まれながらに与えられている自然権jus naturaeの一部を譲渡することによって,かえって自然権の拡張に成功するというケースが生じます。スピノザの政治理論は基本的にこのことを基礎にしていると僕は考えています。ある人間の自然権とはその人間がなし得ることと同義なのですから,スピノザの政治理論において政治が果たす役割というのは,第一義的には人間がなし得る事柄を大きくするという点にあるというのが僕の解釈です。
ひとりよりもふたりの方がなし得る事柄が大きくなる限りにおいて,そのふたりは互いに互いの自然権の一部を譲渡し合う方がより大きな自然権を獲得できます。そこでもっと多数の人間が同じように自然権を譲渡し合うならば,一人ひとりがそれだけ多くの自然権を獲得できることになるでしょう。ここから主権という概念notioが発生します。すなわち現実的に存在する人間が主権者に自然権を譲渡することで,その主権者の下にある人民は大きな自然権を獲得することになります。こういう意味での自然権の譲渡が,スピノザの哲学における社会契約であると僕は解します。社会契約説はホッブズThomas Hobbesの政治論の最重要概念ですが,政治理論に限定するなら,スピノザはそれを基本的に踏襲していると僕は思います。とりわけ『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』にみられる社会契約の概念は,明らかにこうした自然権の譲渡と同じ意味になっているといえるでしょう。

ただ,これはあくまでも政治理論なのであって,実践政治という面ではスピノザは違った考えをもっているようにも思えるのです。『神学・政治論』でみられるような社会契約は,『国家論Tractatus Politicus』では後退しているように僕には思えるからです。それは時を経てスピノザの考え方に変化が生じたからかもしれません。けれども僕には,『神学・政治論』は理論について言及しているのに対し,『国家論』は実践について言及しているからではないかと思えるのです。
『スピノザとわたしたちSpinoza et nous』は,理論をそのまま実践に移そうとしているように僕には思えます。僕が違和感を覚える理由のひとつが,その点にあったかもしれないのです。
編集者による書簡掲載にあたっての価値規準の判断が,僕が想定した通りのものであったなら,次のことが帰結しなければなりません。
スピノザが遺稿集Opera Posthumaの編集者あるいは生きていたら編集者になったであろう人物に送った書簡のうち,遺稿集に掲載されたものは,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vries宛が2通,ピーテル・バリングPieter Balling宛が1通,マイエルLodewijk Meyer宛が1通,シュラーGeorg Hermann Schuller宛が2通,ヨハネス・バウメーステルJohannes Bouwmeester宛が1通で,イエレスJarig Jelles宛は5通,無記名のものも含めると6通になります。
このうち,イエレス以外に宛てた書簡はそのすべてが哲学に関係しています。バリンクに宛てたものは直接的には哲学が題材になっているとはいい難いものですが,スピノザの分析は明らかに哲学的といえるもので,編集者たちもそのように判断したから掲載されたものと僕は解します。
これに対してイエレス宛と明記されている5通の内訳は,明らかに哲学と関連しているといえるものは1通だけで,3通は純然に自然科学が主題となり,残りの1通は『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』のオランダ語訳に関係するものです。さらに哲学と関連している1通も,冒頭部分はむしろ政治論になっています。
相手がだれであるかは関係なく,これらの書簡はそのすべてが質問に対する答えです。要するにスピノザの親友たちのうち,イエレスだけはスピノザの哲学に特化して質問をしたのではないことになります。むしろほかの人たちに比べるなら,イエレスの哲学に関する関心は低かったといえるでしょう。他面からいえば,ほかの人たちは自然科学にはあまり関心がなかったか,精通していなかったといえるかもしれません。
もう少し交際範囲を広げても,このイエレスの特異性は理解できます。ホイヘンスChristiaan Huygensとの文通は掲載されていませんが,ホイヘンスが『神学・政治論』を高く評価したのは間違いなく,単に自然科学にだけ興味をもっていたということはできません。またフッデJohann Huddeに至っては,おそらく自然科学を通してスピノザと交流をもったと推定されるのに,純粋に哲学的質問をスピノザにするようになりました。イエレスはやはりスピノザの親友の中では特異な存在だったといっていいでしょう。
ひとりよりもふたりの方がなし得る事柄が大きくなる限りにおいて,そのふたりは互いに互いの自然権の一部を譲渡し合う方がより大きな自然権を獲得できます。そこでもっと多数の人間が同じように自然権を譲渡し合うならば,一人ひとりがそれだけ多くの自然権を獲得できることになるでしょう。ここから主権という概念notioが発生します。すなわち現実的に存在する人間が主権者に自然権を譲渡することで,その主権者の下にある人民は大きな自然権を獲得することになります。こういう意味での自然権の譲渡が,スピノザの哲学における社会契約であると僕は解します。社会契約説はホッブズThomas Hobbesの政治論の最重要概念ですが,政治理論に限定するなら,スピノザはそれを基本的に踏襲していると僕は思います。とりわけ『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』にみられる社会契約の概念は,明らかにこうした自然権の譲渡と同じ意味になっているといえるでしょう。

ただ,これはあくまでも政治理論なのであって,実践政治という面ではスピノザは違った考えをもっているようにも思えるのです。『神学・政治論』でみられるような社会契約は,『国家論Tractatus Politicus』では後退しているように僕には思えるからです。それは時を経てスピノザの考え方に変化が生じたからかもしれません。けれども僕には,『神学・政治論』は理論について言及しているのに対し,『国家論』は実践について言及しているからではないかと思えるのです。
『スピノザとわたしたちSpinoza et nous』は,理論をそのまま実践に移そうとしているように僕には思えます。僕が違和感を覚える理由のひとつが,その点にあったかもしれないのです。
編集者による書簡掲載にあたっての価値規準の判断が,僕が想定した通りのものであったなら,次のことが帰結しなければなりません。
スピノザが遺稿集Opera Posthumaの編集者あるいは生きていたら編集者になったであろう人物に送った書簡のうち,遺稿集に掲載されたものは,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vries宛が2通,ピーテル・バリングPieter Balling宛が1通,マイエルLodewijk Meyer宛が1通,シュラーGeorg Hermann Schuller宛が2通,ヨハネス・バウメーステルJohannes Bouwmeester宛が1通で,イエレスJarig Jelles宛は5通,無記名のものも含めると6通になります。
このうち,イエレス以外に宛てた書簡はそのすべてが哲学に関係しています。バリンクに宛てたものは直接的には哲学が題材になっているとはいい難いものですが,スピノザの分析は明らかに哲学的といえるもので,編集者たちもそのように判断したから掲載されたものと僕は解します。
これに対してイエレス宛と明記されている5通の内訳は,明らかに哲学と関連しているといえるものは1通だけで,3通は純然に自然科学が主題となり,残りの1通は『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』のオランダ語訳に関係するものです。さらに哲学と関連している1通も,冒頭部分はむしろ政治論になっています。
相手がだれであるかは関係なく,これらの書簡はそのすべてが質問に対する答えです。要するにスピノザの親友たちのうち,イエレスだけはスピノザの哲学に特化して質問をしたのではないことになります。むしろほかの人たちに比べるなら,イエレスの哲学に関する関心は低かったといえるでしょう。他面からいえば,ほかの人たちは自然科学にはあまり関心がなかったか,精通していなかったといえるかもしれません。
もう少し交際範囲を広げても,このイエレスの特異性は理解できます。ホイヘンスChristiaan Huygensとの文通は掲載されていませんが,ホイヘンスが『神学・政治論』を高く評価したのは間違いなく,単に自然科学にだけ興味をもっていたということはできません。またフッデJohann Huddeに至っては,おそらく自然科学を通してスピノザと交流をもったと推定されるのに,純粋に哲学的質問をスピノザにするようになりました。イエレスはやはりスピノザの親友の中では特異な存在だったといっていいでしょう。