スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&認識の本性

2016-02-18 19:21:35 | 将棋
 一昨日と昨日の2日間にわたって弘前市民会館で指された第65期王将戦七番勝負第四局。
 羽生善治名人の先手。最近の手順とは異なりましたが角換わり相腰掛銀に。
                                     
 岐路の局面で郷田真隆王将が桂馬を跳ねたところ。ここから▲4五歩△同歩▲同銀という攻めを敢行しました。
 △同銀▲同桂△4四銀はこう進むところ。組み合わせがいくつかありますがすぐに▲7一角と打ちました。
 △8一飛と引いて逃げたのは後の手順からするとこの一手だった模様。足を止められなくなった先手は▲5三桂成△同銀と捨てて▲4一銀の割り打ち。そこで△4三銀と受けて1日目が終了。封じ手は▲4四歩でした。
 またいくつか応手が考えられるのですが△4一王と銀を取るのがやはりこの一手だった模様。次の▲4三歩成に△同金左も絶対手。先手は▲5三角成と角も捨てて△同金上に▲6二銀と打ちました。
 ▲5三銀成を防がなければなりませんが△3二王と上がりました。どうもこれで後手が残しているようです。先手は▲5三銀成△同金としてから▲2二金△同王▲4二飛成で龍を作り△3二銀の受けに▲5三龍で金を取り返しましたが,8一の飛車が受けによく利いていて,ここで攻め足が止まってしまいました。
                                     
 凌げれば駒得が大きく後手が優勢でしょう。先手は手順を変えることは可能ですが,持ち時間の長い将棋で指された手順ですので,さしあたって第1図から▲4五歩△同歩▲同銀の攻めは無理と結論していいかもしれません。
 郷田王将が勝って2勝2敗。第五局は来月13日と14日です。

 スピノザの哲学と永遠を考える場合に,第二部定理五が根拠にならなければならないと僕が理解するもうひとつの理由は,マルタンが何を示そうとしているのかということとはまったく関係がありません。単にスピノザの哲学の枠内で永遠ないしは事物の永遠性を解そうとするときにも,これが妥当しなければならないと思っているのです。このブログの主旨からしてこちらの方がずっと大事ですから,詳しく説明してみます。
 第二部定理四四系二は,事物を永遠の相の下に観想することが理性の本性に属することを示しています。僕の考えでいうと,そのように事物を観想するということは,理性だけの本性に属するのではありません。第三種の認識の本性にも属する筈です。なぜならスピノザは第三種の認識を,神の属性の形相的本性の十全な観念を原因として,個物の本性の十全な観念を形成する認識だと規定しているからです。理性による認識は共通概念による認識なのであり,第二部定理三七によって個物の本性の十全な認識ではありません。ですから理性による認識の本性には事物を永遠の観点から認識することが属しますが,この事物を個物の本性に限定するなら,むしろそれを永遠の相の下に観想することは,第三種の認識の本性に属するというべきだと考えます。
 理性であれ第三種の認識であれ,人間は事物の永遠性を概念として,概念と知覚とを正しく類別した意味において,概念として認識するのです。他面からいえば,人間にとって事物の永遠性というのは,その事物の本性に属する何かではなく,その事物を対象ideatumとして認識する精神の本性,厳密にいうなら精神の能動の本性に属するのです。したがって第二部公理三の意味から,人間にとって事物の永遠性は,観念としてある,もっといえば観念としてのみあると解さなければなりません。
 スピノザの哲学における一般性と特殊性の考え方から,事物に一般の永遠性とは,個々の事物の永遠性の総体でなければならないと僕は解します。よって人間は事物の永遠性を一般的な意味においても,精神の能動によって認識するのであり,事物の本性によって認識するのではありません。
コメント
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