スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

玉藻杯争覇戦&ほかの書簡

2016-02-02 19:17:44 | 競輪
 高松記念の決勝。並びは深谷‐浅井‐有賀の中部,村上‐南の近畿,原田‐池田の四国で石井と山田は単騎。
 スタートは浅井が取って深谷の前受け。4番手に原田,6番手に村上,8番手に山田,最後尾に石井で周回。残り3周のバックの出口から村上が上昇。山田と石井も続きました。ホームの入口で村上が深谷を押さえると深谷は引き,石井の後ろに原田が入って一列棒状に。バックから深谷が発進。打鐘前に誘導を外していた村上が応戦して先行争いになりましたがこれは深谷がかましました。ですが3番手の有賀は離れ,村上が3番手,5番手に原田,6番手に有賀の隊列に。石井は動こうとしましたが前に進まず,バックから原田が発進。こちらはいいスピードでしたが追いつかれる前に3番手の村上に発進され万事休す。浅井が村上をブロックするところのインにうまく山田が入り浅井を捌くと,村上の後ろの南が深谷と山田の間へ。内から深谷,南,山田の3人がほぼ並ぶようにゴールイン。優勝は逃げ粘った深谷。8分の1車輪差の2着は写真判定で山田。微差の3着に南。
                                     
 優勝した愛知の深谷知広選手は大宮記念に続きこれで記念競輪3場所連続制覇となる通算12勝目。高松記念は2012年2013年に連覇していて3年ぶりの3勝目。ここはこのシリーズの結果と近況から浅井との勝負になるだろうと思っていました。展開上は離れてしまいましたが,有賀がいた分だけの有利さもあったと思います。かましにいったところで村上の抵抗があったので,楽なレースだったとは思いませんが,それでも粘るあたりはやはり復調しているとみてよさそうです。捌かれてしまったものの浅井もしっかりと仕事はしていて,ここしばらくはこのふたりが中心となっていきそうな気配です。

 書簡十二書簡九も哲学的に重要な内容を有していますが,中身については今は検討しません。ひとつだけいっておくことがあるとすれば,これらの書簡をみれば,スピノザは『デカルトの哲学原理』を出版する前後の時点において,『エチカ』の第一部の前半部分に関して,それ以後は変わることない確たる見解を有していたということです。
 掲載された書簡十二と遺稿集には未掲載だった書簡十五以外にも,スピノザとマイエルの間で書簡のやり取りがあったということは確実と僕は考えています。マイエルが『聖書解釈としての哲学』を出版したのはこれより後のことで,その後のふたりの書簡が遺稿集に掲載されていないということは,確かにふたりが仲違いしたことの根拠になるかもしれません。ですが,コレルスはスピノザの死を看取った医師をマイエルとしているのであり,それが本当はシュラーであったとしても,コレルスは宿主の証言を得ているのですから,マイエルも医師としてスピノザを診察していたのは間違いないと僕には思えます。なので未掲載のほかの書簡が存在したことも確実であり,それが掲載されていないことは,スピノザとマイエルが不仲になったということの証拠とはいえないのではないかと判断します。
 ただし,仮にそういった書簡があったとしても,次のようなこともまた確実視できると思います。
 スピノザがイエレスに宛てた書簡で遺稿集に掲載されたものは,哲学が主題になっているものも自然科学だけが主題になっているものもあります。これらの書簡はスピノザがイエレスの質問に答えたものと考えるのが妥当で,しかしイエレスが質問した書簡の方は掲載されなかったのです。ですからもしもマイエルが同じような内容のことをスピノザに質問したとしたら,スピノザはそれに確実に何らかの返事を送るでしょう。したがって遺稿集の編集者はイエレスへの書簡と同じような措置をとった筈です。つまりそうした内容のスピノザからマイエルへの書簡が掲載されていないということは,そういう書簡は存在していないということです。つまりマイエルはそういう質問をスピノザに書簡ではしなかったといえるでしょう。
コメント
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