スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岡田美術館杯女流名人戦&知覚と想起の前提

2016-02-25 19:32:19 | 将棋
 昨日の第42期女流名人戦五番勝負第五局。
 主催新聞社の執行役員による振駒で清水市代女流六段の先手に決まり,里見香奈女流名人のごきげん中飛車。ちょっとした手順の違いはありましたが①-Bに進み,先手が抑え込みを目指しにいきました。
                                      
 信じられないのですが第1図は先手がすでに失敗しているようなのです。というよりここで△2四歩と動いていった後手が機敏だったというべきなのでしょう。先手は▲2六飛と回り△2二飛に▲5八金△5二銀の交換を入れて▲2四歩と取り込みました。手順中,5八に金を引かなければならなかったのは,少し前に△5七歩成という成り捨てを許していたためだったのですが,そこが先手の作戦が失敗に終わった遠因となっていたようです。
 後手は△同角と取りました。ここで▲3五歩と受けたのは仕方がなかったようです。手番を得た後手は先に△2五歩と叩いて▲同飛とさせてから△4五歩▲同銀左△3三桂の両取りを掛けました。
 ▲2九飛と逃げるのは仕方がないですが△4五桂▲同桂△4四歩と大きな駒得を目指されました。
 ▲2三歩△同飛▲1五桂△2一飛▲2二歩△同飛▲2三歩と進めたのは先手としてはこれしかないという手順だったと思われます。ですがここで歩切れになってしまいました。
 後手も飛車はこれ以上は逃げられないので△1五角と取って▲2二歩成△4五歩▲5七銀の二枚換えの手順に進めて△3七角成。先手も飛車先を抑えられては勝負所を失いますから▲2三飛成までは必然の手順でしょう。
 対して△5五馬と引きました。
                                      
 この手は最短で勝つという意味での最善手ではないかもしれませんが,負けないようにするためには最良の策だったように思います。後手は2一の桂馬が捌けていて飛車と銀桂の二枚換え。先手は歩切れで,ここでは指し手に窮しています。ここからは馬を主軸に中央に厚みを築いていった後手が圧倒することになりました。
 3勝2敗で里見名人の防衛第36期に初獲得し37期,38期,39期,40期,41期と連続防衛中でしたので七連覇で通算7期目の女流名人です。

 第五部定理二三のスピノザによる証明に瑕疵はないようです。したがって現実的に存在する人間の精神の本性に属するもののうちには,神の本性を原因として必然的に生じるような永遠である何かaliquidが含まれていると考えなければなりません。ではそれが何でなければならないのかということを,論証そのものを通して考えてみることにしましょう。
 「個を証するもの」の中で佐藤が注意を促しているのは,スピノザが第二部定理一三を援用している点です。これは現実的に存在する人間の身体と精神に関する記述ですが,佐藤によればこの定理が人間の精神による事物の認識の前提となるとすれば,それは人間が事物を表象したり想起したりすることだそうです。
 僕は佐藤の主張が誤りであるとはいいません。第二部定理一九は,人間が自分の身体を認識するのは,身体の刺激を通してのみであるといっています。また第二部定理二三は,人間が自分の精神を認識するのはやはり身体の刺激を通してのみだといっています。そして第二部定理二六は,人間が外部の物体が現実的に存在すると認識するのも,自分の身体の刺激を通してだけだとしています。人間の身体が刺激されるというのは,その身体が現実的に存在している,すなわち持続していることを前提としています。いい換えればもしある身体が現実的に存在しないなら,その精神はこれらの事柄を認識しないといえるでしょう。ですから第二部定理一三が,人間の精神による事物の表象の前提になっていることは間違いないといえるでしょう。
 僕は想起も表象の一種と考えますが,佐藤はふたつを分けています。これは知覚と想起を分けているといえるでしょう。そして上述の定理群は,知覚だけに限定されているともいえます。ですが想起に関しても,第二部定理一七系および第二部定理一八から,人間の身体の刺激を通してのみ生じる思惟作用であることは確定できます。なので第二部定理一三が,人間の精神による事物の想起の前提となる定理であるということも,佐藤が主張している通りであると僕は考えます。
 したがってこれらの観念は,いずれも永遠であるとはいわれ得ません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする