スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部定理一一備考&我思うゆえに我あり

2016-07-08 19:12:10 | 哲学
 Kの自殺の後,Kの実家に電報を入れて家に戻ると,Kの枕元で奥さんとお嬢さんが泣いていました。先生はそれで初めてKの死を悲しむことができました。そしてこの悲しさが苦痛と恐怖に握り締められていた自分の心に「一滴の潤い」を与えてくれたのだと先生は説明しています。
 ここで先生がいっている恐怖というのはラテン語ではmetusであり,このブログでは不安と訳されています。第三部諸感情の定義一三で示されている感情affectusです。先生はKの死が自分の身に対してよからぬことを齎すのではないかと想像していたふしがあり,こういう感情が発生していたのは明白でしょう。一方,苦痛dolorというのは普通は感情とは解されないでしょうが,『エチカ』では感情のひとつとされています。ただし諸感情の定義には含まれていません。第三部定理一一備考で説明されているだけです。
                                     
 「私は精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び,これに反して同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは,快感および苦痛ということが人間について言われるのは,その人間のある部分が他の部分より多く刺激されている場合であり,これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは,その人間のすべての部分が一様に刺激されている場合であるということである」。
 これは「解するintelligere」という類の定義Definitioなので,定義の妥当性を問うことは無意味です。むしろ『エチカ』での約束事だと理解してください。
 スピノザが苦痛とか快感titillatioを感情と認定することができたのは,第三部定義三に依拠したからです。すなわち感情とは,身体corpusの状態であると同時にその状態の観念idea,いい換えれば精神mensの状態でもあるからです。そしてこの定義に従えば,先生が有していた感情は,苦痛であるというより,憂鬱melancholiaであったと理解するのがよいように思います。もちろんそれは『エチカ』の定義に倣うならという意味であり,先生が間違ったことをいったということではありません。

 デカルトRené Descartesは確実な認識cognitioが真理veritasの「しるしsignum」になるので,とにかく確実な認識の基礎となる観念ideaを探し求めました。そのために,さしあたって確実であると思えるようなすべての認識について,それは確実ではないのではないか,いい換えれば真の観念idea veraではないのではないかと疑うことにしました。これが有名な方法論的懐疑doute méthodiqueといわれる営みです。そしてこの営為を継続しているうちにデカルトは,そのようにすべて疑おうとしている自分自身の知性intellectusが存在しているということは確実であるということを発見しました。俗に「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」といわれている発見です。そこでデカルトはこれを確実な認識の基礎として,多くの事柄を論証していったのです。
 「我思うゆえに我あり」という命題は,ラテン語ではcogito, ergo sumです。ですがここで勘違いしてはいけないのは,デカルトはこの命題を三段論法から導き出したというわけではないという点です。すなわち,思うということはあるということだという命題があり,我は思っているから,我はあるというような論証Demonstratioをデカルトはしているのではありません。それは上述部分でデカルトがどのようにこの命題に至ったのかということの僕の説明から明らかだと思います。デカルトは思っている,思惟している自分が存在しているということを確実視したのであり,思惟するということは存在するということだという前提条件があったのではありません。
 スピノザはこの点を間違えませんでした。『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』が優れたデカルト哲学の解説書である理由のひとつがここにあります。スピノザはこの著書の第一部の緒論,すなわちこの著書の最初の部の最初の章で,デカルトがいったcogito, ergo sumという命題は,ego sum cogitansという命題と同一の意味の単一命題であると説明しています。これは「我思いつつある」とでも訳される命題になります。「我思うゆえに我あり」が三段論法ではないということはデカルト自身がいっていることですが,これを「我思いつつある」という意味に置き換えられると指摘したのは,スピノザが最初だったようです。
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