スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

模倣の欲望&対応

2016-07-22 19:15:27 | 歌・小説
 第三部諸感情の定義三三で示されている競争心という感情は,基本感情affectus primariiのうちのひとつである欲望のうち,とくに他者の欲望を模倣することによって発生する欲望のことをいいます。いい換えれば感情の模倣affectum imitatioによって生じる欲望は,すべからく競争心といわれることになります。
 こうした感情というのは,亀山郁夫の文学論のキーのひとつになっています。もっとも亀山はスピノザ主義者ではありませんし,おそらくスピノザを読んではいないでしょうから,競争心とか感情の模倣といった,『エチカ』に著されていることばを用いることはありません。ですがこれを僕は「父殺し」や「使嗾」といった概念と同じ程度に,亀山は重視して文芸作品の読解を行っていると僕は解します。一方,僕自身はスピノザ主義者ですから,この観点において亀山が示している概念は不要です。僕はそれを感情の模倣というスピノザ主義に特有の概念によって説明することができるからです。たとえば先生の神聖な恋を恋したKの恋への模倣であるということを,僕はスピノザ主義的に解します。ですがスピノザ主義者ではない亀山には,これとは別の概念が必要になるのです。もちろん亀山の専門はロシア文学ですから,『こころ』を読解するということはありません。ですがもしも亀山がそれをすると仮定したなら,ロシア文学の読解のための概念装置をそのまま適合させるだろうと思われます。
                                   
 いろいろな著書で示されていますが,ここでは『共苦する力』から示します。この本の中で亀山は,フランス人哲学者のジラールの,模倣の欲望という概念をとりあげています。亀山の説明ですと,人は必ず誰かが欲望しているものだけを欲望するというのがジラールの見解のようで,これはスピノザとは違った考えです。ただそれはおそらく,欲望という感情自体の定義の相違に由来すると僕には思えます。亀山はこのジラールの概念を読解に大いに用います。ですが僕にはこの概念は不要なのです。

 書簡九シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに対して明示した定義Definitioのふたつのパターンのうち,僕が第一のパターンとしたタイプの定義が,『エチカ』のすべての定義を占めています。ではもうひとつのパターンに関しては,『エチカ』の定義を分析する際には有用ではないのかといえば,僕は必ずしもそうは考えていません。これは次の事情によります。
 一般に,AをBと解するという命題は,BであるものをAというという命題に置き換えることが可能です。この場合,Aが定義されるものを指示し,Bはその定義内容を意味すると考えてください。なのでAをBと解するという命題が定義として成立する,スピノザのいい方に倣えばよい定義であるのなら,BであるものをAというという命題もよい定義でなければならないと僕は考えます。
 おそらくスピノザもそのことを是認するものと思います。たとえば第二部定義二というのは明らかにBであるものをAというという形式で記述されています。ですがこの定義は,あるものの本性に属するものは,それがなければあるものが,またあるものがなければそれが,あることも考えることもできないようなもののことと解する,というようにいい換えることができる筈です。つまりこの定義も第一のパターンの定義であるということができなければなりません。つまりAをBと解するがよい定義であるというのと同じ意味で,BであるものをAというもよい定義だとスピノザは認めなければならないと僕は考えます。なお,本性に関するこの定義は,スピノザの定義の概念を複雑にさせていると僕は考えています。ですがそれは後に詳述するでしょう。
 このことから明らかなのは,AとB,すなわち定義されるものと定義された内容は一対一で対応し合わなければならないということです。つまりAをBと解するのなら,公理系の内部でBであるものをAというだけではまだ不十分なのであって,BであるものはAだけであるということができるのでなければなりません。もっと単純にいうと,AがBであるだけでは不十分で,BであるのはAであり,Aだけである,A以外のものはBではないことが成立しないといけないのです。
コメント
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