スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

不死鳥杯&立場の尊重

2016-07-05 19:04:49 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された福井記念の決勝。並びは新田に牛山,石井‐渡辺‐内藤の南関東,松岡‐浅井‐林の中部で稲垣は単騎。
 牛山がスタートを取って新田の前受け。3番手に松岡,6番手に石井,最後尾に稲垣で周回。残り2周のホームの手前から石井が上昇。稲垣は追いませんでした。石井はホームで新田を叩いて内藤までが前に。その後から松岡が上昇。バックまで新田に蓋をしてから石井を叩いて打鐘。このラインを追った稲垣と石井で4番手を取り合いましたが,ホームで稲垣が確保。石井が5番手,新田が8番手の一列棒状に。新田が来る前に稲垣がバックで発進。浅井がうまく牽制しながら併せていくと,稲垣はコーナーでスピードダウン。浅井はそのまま踏んで優勝。大外を捲り追い込んだ新田が半車身差で2着。逃げ粘った松岡が半車身差の3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は5月の平塚記念以来の記念競輪19勝目。福井記念は初優勝。現状の力では新田ですが,ここは松岡がいましたので,対等以上に戦えるだろうと思えました。先に捲ってきたのは新田ではなく稲垣でしたが,巧みに併せて3着とはいえ逃げた松岡も残しましたので,これ以上は望めないような走行だったのではないでしょうか。新田は少しだけ前を見過ぎたようなきらいはあったと思います。松岡の先行は予期していたでしょうが,石井と稲垣で4番手を取り合うのは想定外だったかもしれません。

 たぶんスピノザはそのことを意識できていなかったと思うのですが,方法論の差異に関してスピノザとロバート・ボイルRobert Boyleの間で争点になっているのは,真理の「しるしsignum」とは何かということです。実証主義者であるボイルは,それは実験による検証のうちにあるとみなしてました。いい換えれば実験の対象となる物体のうちに,外的特徴denominatio extrinsecaとして存在すると解していたのです。ところがデカルトやスピノザにとってはそうでなく,確実な認識のうちに,あるいは確実な認識を基礎として帰結してくる観念のうちにあるものでした。いい換えればそれは観念の内的特徴denominatio intrinsecaに存するものであったのです。
                                     
 スピノザはもっと後に,アルベルトステノから手紙を送られました。書簡六十七と書簡六十七の二です。ここでも真理の「しるし」が何かがひとつの争点になっています。スピノザはステノの手紙は無視しましたが,アルベルトに対しては知人たちから請われて返事を送りました。その書簡七十六の中には,いくらカトリックの歴史や教会の信徒のうちに真理があると主張しても,それは真理が真理であることの確実な証にはならないという意味のことが書かれています。おそらくステノに返信を書く必要が生じた場合にも,スピノザはこうした自身の見解を説明したことでしょう。このときにスピノザがアルベルトおよびステノに反論したのと同じような構図で,スピノザはずっと前にボイルに対して反論していたのです。
 ただし,このふたつの実例の間には,大きな差異があったと僕は解します。スピノザはアルベルトやステノに対しては,かれらがローマカトリックの信者であるということを念頭に,ふたりがカトリック教会や信者の外的特徴を真理の「しるし」とみなす理由もよく分かっていたと思うのです。ところがボイルに対しては,ボイルが実証主義者であるから外的特徴に「しるし」を求める,あるいは現に求めているということを理解できていなかったように僕は思います。他面からいえば,スピノザはアルベルトに反論するときには,アルベルトやステノの立場を尊重できていたと思うのですが,ボイルに対してはそのようには尊重できていなかったと思うのです。
コメント
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