スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&唯名論的定義

2016-07-26 18:55:33 | 将棋
 昨日の第64期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は佐藤天彦名人が2勝,糸谷哲郎八段が3勝。
 振駒で糸谷八段が先手となり佐藤名人の横歩取り。
                                     
 先手が2六の飛車を引いた局面。ここから△2四飛▲2五歩△3四飛と進みました。飛車交換を挑んで相手に受けさせるのは気持ちのいい手順ですが,第1図は単に△3四飛と回る手もないわけではなく,善悪は難しいところと思います。実戦は先手がうまく押さえ込むことに成功したのではないでしょうか。
                                     
 第2図は後手が△5四歩▲同歩と角道を開けつつ歩を切った局面。ここで△3六歩と取り込み▲同銀△5八歩▲4八角△3八歩▲4七銀△5五銀▲2八飛と進展。押さえ込みを狙った筈の先手が退却し後手が前進してきているので,展開的には後手が圧倒的に優勢になっていなければならないところ。ですが実戦の先手の指し回しはよい辛抱だったようで,まだ先手も十分に指せる局面でした。僕はこの将棋ではこの一連の手順が最も印象に残りました。
                                     
 第3図は後手が金を打った局面。これは手番を渡すので怖い手ですが,後手が勝ちの局面だったようです。先手は▲7四桂とは取らずに▲8六桂ともう一枚設置。△2六金と飛車を取られたところで▲7四桂左△8三王として▲2六角と金を取り,▲8二金を狙いました。
 そこが勝敗を分けた局面。後手は△8一歩と受けましたが▲8二桂成△同王▲7四金が自玉の上部を手厚くしつつの詰めろで先手の勝ちになっているとのこと。△8一歩ではなく△8二歩なら8一に逃げる余地があり詰めろではなく後手が勝てていたようです。ただ部分的にいえば△8一歩より△8二歩の方がよいケースというのはレアだと思われるので,仕方がない敗着であったように思います。
 糸谷八段が挑戦者に。王座戦五番勝負は初出場。第一局は9月6日です。

 スピノザがA,すなわち定義されるものに注目して説明しているタイプで表明している立場は唯名論です。つまりスピノザは,定義される内容すなわちBが知性によって十全に認識されるのであれば,その観念の対象ideatumはどう記号化されてもよい,あるいは少なくともどのように記号化されても構わない場合があるということを主張しているのです。
 第二部定義四とか第三部定義一というのを僕がこのタイプの定義であると解するのは,観念の場合であれ原因の場合であれ,それらの定義で説明されている内容が十全adaequataと記号化されなければならない理由ないしは必然性はどこにもないと考えるからです。これらの定義において重要なのは,前者の場合でいうなら真の観念が有している内的特徴denominatio intrinsecaを知性が十全に認識するということであり,後者の場合でいえばある原因がそれだけで結果を生じさせているということを知性が十全に認識することなのであって,そう認識された観念対象が便宜的に十全な観念とか十全な原因といわれているにすぎません。いい換えればまず先に十全性という概念があって,その概念がどのような概念であるのかが認識されなければならないというものではないのです。
 これと似たような定義として,第一部定義六をあげることができると僕は考えています。ここでは絶対に無限な実体というのが知性によって十全に認識することが求められているのであって,それを神というということに絶対的な意味での必然性が存在するとはいえないからです。実際に第一部定理一一の文言というのは,そこで証明されようとしているのは神が存在するということなのではなく,絶対に無限な実体が存在するということだと解することが可能になっているように思えます。スピノザは神が存在するということを証明したわけですが,同時代のほとんどの人びとからは無神論者であるとみなされました。そういう人びとの意見では,スピノザが定義している神はかれらの神ではなかったからです。少なくとも神が信仰の対象であるという見解をもつ限り,この定義は唯名論的立場から表明されていると理解しておく方が安全と思います。
コメント
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