スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

『こころ』の破綻&真の定義

2016-07-30 19:03:55 | 歌・小説
 『悪霊』は作品内作者が知り得ないことが記述されているという意味で構成的な破綻が生じています。『こころ』も同じように作品内作者の話法による記述ですが,『悪霊』に顕著にみられるような構成的な破綻は含まれていないように僕には思えます。むしろ『こころ』はこの手法を用いたために,作品の奥行きが深くなっているというのが僕の評価なので,この手法を採用したことは成功だったのではないかと考えます。
                                     
 ただ,プロットの展開上で,前後の辻褄が合わなくなっているという意味での破綻は『こころ』にも含まれています。そのうちおそらく最も有名な破綻というのは,中の最後の部分と下の関係にあります。
 中十六で私は目方の重い郵便物を受け取ります。それを懐に差し込み,しばらくしてから読みます。それは先生からのものでした。枠の中に嵌められた字画という描写があるので,おそらく原稿用紙に書かれていたものでしょう。このとき私の父は生命の危険がありました。ですが私は,最後の部分に先生の安否を気遣わせる文言があるのを目にし,帯を締め直して手紙を袂に入れ,停車場に向かってそのまま東京行きの汽車に飛び乗ります。そして三等列車の中で,袂に入れておいた手紙を最初から読み始めます。これで中が終ります。
 私が受け取ったのは先生の遺書で,下一は冒頭からその遺書の記述です。そして下五十一まで,下のすべては先生の遺書,すなわち私が中十六で受け取った郵便物なのです。
 これだけの分量のものが原稿用紙に書かれていたとして,それが何枚になるのかは分かりません。ですが,懐に差し込むとか,袂に入れておくなどということが容易にできるような分量ではないことは間違いありません。先生の遺書の分量を減らすことは不可能ですから,中十六以降の記述には明らかに破綻があることになります。
 漱石はこのことには気付いていたかもしれません。ですが朝日新聞の新聞小説としてこれを書いていたので,中の部分を書き直すことはできなかったのです。なので後で単行本化するときにも,そのまま放置したのでしょう。

 第一部定理八備考二でいわれていることが,『エチカ』のB群の定義にだけ妥当すればよいか,それともA群の定義にも妥当しなければならないかという点は,どちらの解釈も不可能ではないと思います。先に僕の見解だけいっておけば,このことはA群の定義にも妥当しなければなりません。
 もしもこれがB群の定義にだけ妥当すればよいという結論を出すためには,当該部分でスピノザが真の定義といっている部分を,B群の定義という意味と同じに理解しなければならないと僕は考えます。実際にスピノザは書簡九では定義を二種類に類別していますし,僕はA群の定義を唯名論という立場を表明したものと解しています。唯名論的に命名された定義が真の定義から外れるという解釈は不可能ではないのであって,そのゆえに備考で述べられていることはB群の定義にだけ妥当すればよいという見解に一理あることは僕も認めます。
 しかし,スピノザの分類はシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡で述べられていることであって,『エチカ』でスピノザがそういう分類をしているのではありません。ですからその分類をそのまま『エチカ』の定義に該当させることはできないと僕は思います。むしろ『エチカ』で定義については分類がされてない以上,『エチカ』の定義はすべてその備考でいわれていることに合致していると考える必要があると僕は判断するのです。
 ではなぜスピノザはそこで単に定義とはいわずに真の定義といったのでしょうか。それはおそらく,定義されるものの本性を含んではいない定義と,『エチカ』でスピノザ自身が示した定義の間の差異を意識したからだと僕は考えます。たとえばデカルトは神を最高に完全な実体と定義しました。スピノザからするとこれは神の本性を含んでいない定義です。スピノザはこの種の定義を偽の定義とみなし,第一部定義六のような定義を神の真の定義とみなしたのだと思います。このような意味でスピノザは真の定義といういい回しを用いたのではないでしょうか。
 このゆえに僕は定義が定義されたものの本性を含むということが,『エチカ』のすべての定義に妥当しなければならないと考えます。
コメント
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