スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

柳澤の解釈&スピノザの誤解

2016-07-11 18:57:06 | NOAH
 どういう存在をスターと表現するべきであるのかということは,僕自身が固執していることなのであって,柳澤と僕との間に見解の相違があったとしても,『1964年のジャイアント馬場』で語られている内容に対して大きな意味を有するものではありません。ですがこの著書の中で柳澤が施している解釈のうちには,著書全体を覆っている論述に対して否定的であるとみなさなければならない解釈が含まれています。これは柳澤にとっても問題ですが,僕自身もこの本については高くその内容を評価しますので,とても重要な問題です。なのでこのことは何回かに分けて詳しく書いていくことにします。そこでまず,僕が何を最大の目的としているのかということを説明しましょう。
                                 
 僕はこれから,『1964年のジャイアント馬場』の中で記述されている柳澤の解釈に,部分的に誤謬が含まれているということを指摘します。ですが柳澤の誤謬を明らかにすることは僕にとってはそれ自体としての目的ではありません。柳澤はプロレスを純粋スポーツとはみなさず,筋書きのあるドラマを含む競技とみます。僕はそれには賛同します。ところが僕が誤謬だと指摘しようとしている柳澤の解釈が,誤謬ではなく真理であるとすると,柳澤が把握するプロレスの競技性が覆ってしまうと僕は考えます。つまり僕の目的は,柳澤がみるプロレスの競技性に関しては,それが合理的で正当性のある解釈であるということを証明することです。いい換えれば,柳澤による部分的な解釈を否定することによって,むしろ全体の解釈を肯定しようとするのです。おそらくかなり長くなりますので,僕の意図がそういう点にあるということはずっと忘れないでください。
 当該の解釈が含まれているのは,1990年6月8日に日本武道館で行われた,三沢と鶴田の試合です。

 スピノザは確実な認識の基礎となる神の観念を原因として帰結するすべての観念は同様に確実であると解していました。いい換えれば真であり十全であると解していました。そしてそうした観念の内的特徴denominatio intrinsecaに,真理の「しるしsignum」があると解していました。ですからスピノザにとって,真空すなわち延長の様態が排除された空間が実在することは不可能であるということは,ロバート・ボイルRobert Boyleがみなしたように仮説ではあり得ず,真理そのものであったのです。同じようにアトムすなわちそれ以上は分割することができない空間が実在することは不可能であるということも,真理そのものでした。なのでスピノザにとっては,ボイルがそれらのことを実験によって検証しようとすること自体が無意味であった,あるいは不要だったことになります。
 さらにスピノザはこのとき,ボイルが実証主義者であり,そのために観念の内的特徴には真理の「しるし」を認めないということを,十分に尊重できていなかったと僕は考えています。これらの事情が重なったために,工藤がいっている通り,スピノザはボイルの実験の意味,なかんずくボイル自身にとっての意味というのを正しく理解することができなかったのだと僕は思います。そしてそれはたぶん,単にボイルにとっての意味をスピノザは見逃したというだけでなく,その意味を取り違えて解釈することになったのだと思われます。
 『スピノザ哲学研究』では,スピノザはボイルによる硝石の実験を,硝石の本性に関わる実験であると理解したとされています。ボイルにとってそれは,アトムが実在し得ないということの検証として有意味だったのだとすれば,これはスピノザの誤解です。そして実際にこの誤解があったと僕も考えます。というのも,スピノザとボイルの間での論争では,明らかに硝石の本性に関係すると考えられる事柄もその内容に含まれているからです。そしてこの点においては,一流の科学者であったボイルの方が,スピノザよりも硝石の本性をよく理解していたといって間違いないでしょう。ただこれは哲学から外れますので,ここでは詳しく論じません。スピノザに誤解があったというだけで十分です。
コメント
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