スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

海と宝石④&虚偽の証言

2017-03-18 19:09:52 | 歌・小説
 に続く二行は以下のような歌詞になっています。僕にとって最も謎多き二行です。
                                     

     臆病な小石の 泣きごとを
     まだ ひなのかもめが くわえてゆく


 全体的な意味は分からないので,部分的に解明します。
 にあるように,冒頭の女のことばを聞いていたカモメが存在しました。それは複数形でしたので,その中にまだ雛のカモメがいたのでしょう。そのカモメが何かを嘴に挟んで飛んでいくのは間違いないところです。
 臆病というのは普通は人間,広く見積もっても動物に対する形容です。したがってこの形容は女に対してなされていると解するのが妥当と僕は思っています。実際に①では臆病な女と歌われていました。
 人間の女を雛のカモメがくわえていくということはあり得ません。ですからカモメがくわえていったのは石と解するべきでしょう。
 この石はおそらく①で歌われていた宝石です。宝石は人間にとっては宝石でしょうが,カモメにとっては価値があるものではありません。なので宝石が小石といい換えられるのは,女の視点からカモメの視点に移行したという意味では僕には納得できます。
 でもこれ以上のことは僕には読解不能です。とくに,だからどうしたということがさっぱり分かりません。カモメが宝石をくわえて飛んでいきましたという報告を受け取っても,リアクションに困るのです。
 さらにのリフレインに続きます。ここでも,だから,というのがどこから出てくるのか分からないのです。

 僕はケッテルリンフへの助言は事実であったと思っています。したがってスピノザがしばしばコルデスの説教を聞きにいったことは事実でなかったと判断します。もしスピノザがそうしていたら,助言の逸話が発生する契機となる,ケッテルリンフの自身の宗教に対する不安metusが発生することがないと思うからです。ですからこのことについてスぺイクは,コレルスJohannes Colerusに対して虚偽の証言をしたと思っています。
 そしてこうした考察から確実と考えられるのは,少なくともスぺイクが虚偽の証言をコレルスに対してなしたことはあったのだということです。なぜなら,ケッテルリンフへの助言と,スピノザがしばしば集会に参加したということは両立し得ないと考えられるからです。すなわち,ケッテルリンフへの助言が事実なら,しばしば集会に参加したというのは虚偽でしょう。これが僕の見解ですが,事実としてスピノザがしばしばコルデスの説教を聞きに行っていたなら,ケッテルリンフへの助言は虚偽であると思われます。そうでないのなら両方とも虚偽なのであって,両方が事実であったということはあり得ないと思います。
 したがって,フロイデンタールJacob Freudenthalがいっているように,証言者としてのスぺイクが事実だけを語ったということはないだろうと思います。いい換えれば,証言者としてのスぺイクの信憑性には疑義があるというフロイデンタールの指摘は,確かな合理性が含まれているものだと判断します。ただ僕の見解ではそれは,スぺイク自身の人間性に由来するものではありません。他面からいえばスぺイクは虚言癖のある人間であったということを意味するのではありません。スピノザのことを敬愛しまた尊敬していたスぺイクには,スピノザについて好印象を抱いてもらいたいという欲望cupiditasがあったので,その欲望が虚偽の証言の原因となったのだと考えます。けだしスぺイクの精神mensのうちにあるスピノザの観念ideaは,スピノザの現実的本性actualis essentiaよりスぺイクの現実的本性をより多く含む思惟の様態cogitandi modiであり,かつ欲望とは,受動状態における人間の現実的本性にほかならないからです。
 『スピノザの生涯』についての考察はこれで終えますが,別の考察を続けます。
コメント
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