26日に放映された第66回NHK杯テレビ将棋トーナメントの決勝。対戦成績は佐藤康光九段が1勝,佐藤和俊六段が2勝。
振駒で佐藤康光九段の先手。佐藤和俊六段のノーマル三間飛車。最初から最後まで見どころが多い将棋になりました。
穴熊を目指した先手が角を引いた局面。たまにある形で,☖2二飛が無難な手。ですが☖6二玉と上がったので☗2四歩☖同歩☗同角☖2二飛☗3三角成☖2八飛成☗4三馬の大乱戦に。まったくないわけではなく,有名な将棋だと第54期名人戦七番勝負第四局は部分的に同じ手順に進展しています。定跡では先手よしとされていて,実際に先手が悪い理屈はないと思いますが,勝つとなるとそれなりに大変なので,こうした指し方を選ぶ場合もあるということでしょう。本局はたぶん先手が二枚換えで飛車を取って攻めていったのがやり過ぎで,後手がよくなったと思います。
第2図は☖2三歩と打って☖3一金から飛車を取りにいく方針でいけば後手がやれたようです。実戦は☖6四桂☗4四馬☖7六桂☗5九銀と進みました。感想戦の様子だと後手はこの銀引きを見落としていたようで,悲観してしまったようです。ですがそれでも☖2三歩と打てばまだ後手がよかったのではないでしょうか。悲観したために☖2三金と打ち☗同飛成☖同銀☗4三角成☖2八飛☗7七王☖2四飛成☗6六馬☖3八龍☗7六馬と,働きに乏しかった1六の角を馬にされた上に桂馬を取られ,ここは先手がよくなったと思います。ですがその後で先手が後手の龍を侵入させるような受け方をしたのは失着だったでしょう。
第3図は後手が歩を垂らしたところ。ここから☗4四桂☖3三銀☗3二桂成☖同金☗同馬☖4八歩成☗2二歩☖5八と☗2一歩成と先手が一直線の攻め合いを選んだのは驚きの手順でした。
第4図で☖6九とと金を取ると☗3三馬上は詰めろではないので本当に先手が勝てるのか微妙ではないかと思えます。ですがこの順は感想戦では検討されませんでした。おそらく両者が同じ読みをしていたからで,その推測が正しいならこの部分で先手が読み勝っていて,それが勝敗に直結したのではないかと思います。もちろんその読み筋は実戦の進行で,第4図から☖6八とと銀の方を取る手。☗3三馬上に☖6七とと捨て☗同王に☖3七龍の王手。合駒に歩を使えない先手は☗7八王と引き☖3八龍引と王手。今度は☗7八歩と打てますが☖3三龍☗同馬☖同龍で2枚の馬を消去できます。
飛車1枚と角2枚ですから部分的には先手の大損。ですがこれが後手にとっての罠で第5図は☗4一飛と打つ手が厳しく,ここで先手の勝勢になったのだと思われます。
佐藤康光九段が優勝。第56期と57期の連覇があり,9年ぶり3度目のNHK杯優勝です。
思惟する力があるところには意志する力が必ずあります。そして思惟する力とは,真の観念idea veraであれ誤った観念であれ,ある人間の知性intellectusの現実的有actuale esseを構成する観念のすべてを意味します。つまりスピノザがいっているのは,観念があるところには必ず意志voluntasもあるということです。観念があるところに意志があるのであれば,意志があるところには必ず観念もあることになります。ただし,スピノザは思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念であるといっているのですから,意志があるところに観念があるということの意味を解する場合には注意は必要です。少なくともその主張から,意志が観念の原因となるということはあり得ないからです。
論理的にいえば,観念は意志の原因ではあり得ることになります。ただしスピノザがそのように主張しているわけではありません。先走っていえば,スピノザはある観念の原因はそれとは別の観念であるといいますが,そのとき,たとえばAという観念がBという観念の原因であるという意味においては,Aという観念が意志の原因になるといえるのですが,Aという観念が,Aという観念そのものと関係する意志の原因であるということをスピノザは主張しません。ただ,Aという観念がある知性のうちに存在する場合には,このAの観念と関係する意志する力もその知性のうちに存在しているといっているだけです。もちろんこの場合のAの観念というのは,真の観念であっても誤った観念であっても同じです。
これでスピノザが意志という思惟の様態とはどのようなものであると考えているかは概ね明らかにすることができるでしょう。すなわち観念があるのであれば何らかの意志があるのであって,何らかの意志があるということは観念があるということです。他面からいえば,観念というのは何らかの意志がなくてはあることも考えることもできないのであり,逆に意志とは観念がなければあることも考えることもできない思惟の様態なのです。つまりこの関係は,第二部定義二でいわれている事物とその事物の本性の関係と類比的です。つまり観念がある事物であるとみなされるなら,意志とはその観念の本性に類するものなのです。
振駒で佐藤康光九段の先手。佐藤和俊六段のノーマル三間飛車。最初から最後まで見どころが多い将棋になりました。
穴熊を目指した先手が角を引いた局面。たまにある形で,☖2二飛が無難な手。ですが☖6二玉と上がったので☗2四歩☖同歩☗同角☖2二飛☗3三角成☖2八飛成☗4三馬の大乱戦に。まったくないわけではなく,有名な将棋だと第54期名人戦七番勝負第四局は部分的に同じ手順に進展しています。定跡では先手よしとされていて,実際に先手が悪い理屈はないと思いますが,勝つとなるとそれなりに大変なので,こうした指し方を選ぶ場合もあるということでしょう。本局はたぶん先手が二枚換えで飛車を取って攻めていったのがやり過ぎで,後手がよくなったと思います。
第2図は☖2三歩と打って☖3一金から飛車を取りにいく方針でいけば後手がやれたようです。実戦は☖6四桂☗4四馬☖7六桂☗5九銀と進みました。感想戦の様子だと後手はこの銀引きを見落としていたようで,悲観してしまったようです。ですがそれでも☖2三歩と打てばまだ後手がよかったのではないでしょうか。悲観したために☖2三金と打ち☗同飛成☖同銀☗4三角成☖2八飛☗7七王☖2四飛成☗6六馬☖3八龍☗7六馬と,働きに乏しかった1六の角を馬にされた上に桂馬を取られ,ここは先手がよくなったと思います。ですがその後で先手が後手の龍を侵入させるような受け方をしたのは失着だったでしょう。
第3図は後手が歩を垂らしたところ。ここから☗4四桂☖3三銀☗3二桂成☖同金☗同馬☖4八歩成☗2二歩☖5八と☗2一歩成と先手が一直線の攻め合いを選んだのは驚きの手順でした。
第4図で☖6九とと金を取ると☗3三馬上は詰めろではないので本当に先手が勝てるのか微妙ではないかと思えます。ですがこの順は感想戦では検討されませんでした。おそらく両者が同じ読みをしていたからで,その推測が正しいならこの部分で先手が読み勝っていて,それが勝敗に直結したのではないかと思います。もちろんその読み筋は実戦の進行で,第4図から☖6八とと銀の方を取る手。☗3三馬上に☖6七とと捨て☗同王に☖3七龍の王手。合駒に歩を使えない先手は☗7八王と引き☖3八龍引と王手。今度は☗7八歩と打てますが☖3三龍☗同馬☖同龍で2枚の馬を消去できます。
飛車1枚と角2枚ですから部分的には先手の大損。ですがこれが後手にとっての罠で第5図は☗4一飛と打つ手が厳しく,ここで先手の勝勢になったのだと思われます。
佐藤康光九段が優勝。第56期と57期の連覇があり,9年ぶり3度目のNHK杯優勝です。
思惟する力があるところには意志する力が必ずあります。そして思惟する力とは,真の観念idea veraであれ誤った観念であれ,ある人間の知性intellectusの現実的有actuale esseを構成する観念のすべてを意味します。つまりスピノザがいっているのは,観念があるところには必ず意志voluntasもあるということです。観念があるところに意志があるのであれば,意志があるところには必ず観念もあることになります。ただし,スピノザは思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念であるといっているのですから,意志があるところに観念があるということの意味を解する場合には注意は必要です。少なくともその主張から,意志が観念の原因となるということはあり得ないからです。
論理的にいえば,観念は意志の原因ではあり得ることになります。ただしスピノザがそのように主張しているわけではありません。先走っていえば,スピノザはある観念の原因はそれとは別の観念であるといいますが,そのとき,たとえばAという観念がBという観念の原因であるという意味においては,Aという観念が意志の原因になるといえるのですが,Aという観念が,Aという観念そのものと関係する意志の原因であるということをスピノザは主張しません。ただ,Aという観念がある知性のうちに存在する場合には,このAの観念と関係する意志する力もその知性のうちに存在しているといっているだけです。もちろんこの場合のAの観念というのは,真の観念であっても誤った観念であっても同じです。
これでスピノザが意志という思惟の様態とはどのようなものであると考えているかは概ね明らかにすることができるでしょう。すなわち観念があるのであれば何らかの意志があるのであって,何らかの意志があるということは観念があるということです。他面からいえば,観念というのは何らかの意志がなくてはあることも考えることもできないのであり,逆に意志とは観念がなければあることも考えることもできない思惟の様態なのです。つまりこの関係は,第二部定義二でいわれている事物とその事物の本性の関係と類比的です。つまり観念がある事物であるとみなされるなら,意志とはその観念の本性に類するものなのです。