被災地支援競輪として実施された昨日の玉野記念の決勝。並びは吉田‐神山の関東,村上‐金子の近畿中部,原田‐堤‐岩津の四国中国で早坂と石井は単騎。
石井がスタートを取って前受け。2番手に村上,4番手に原田,7番手に早坂,8番手に吉田という周回に。吉田から動いていきましたが,残り2周のホームからバックにかけてかなり原田を牽制していきました。バックに入ってから吉田が踏み込むと,村上が合わせるように出ていき,打鐘で先行態勢に入った吉田ラインの3番手を取りました。ずっと蓋をされていた原田は前が開くと発進。ホームで吉田に襲い掛かりましたが吉田が応戦したのでここからバックまで先行争いに。8番手まで引いていた早坂がバックから発進すると,原田ラインの3番手を追走していた岩津がそれに合わせて自力で発進。この捲り争いは岩津の方が制して直線では先頭に。流れ上ずっとインで詰まっていた村上は岩津が自力に転じたことでこれを追い掛けることができ,コーナーでは早坂のさらに外に。さらに外を捲ってきた石井を弾くとそのまま直線も外から伸びて岩津を捕えて優勝。岩津が4分の3車身差で2着。村上マークの金子が4分の3車輪差で3着。
優勝した京都の村上義弘選手はKEIRINグランプリ2016以来の優勝。記念競輪は昨年4月の高知記念以来の通算32勝目。玉野記念は2013年以来4年ぶりの2勝目。僕はこのレースは先行は吉田で,3番手を取った選手が有利になると思っていて,先行争いは想定していませんでした。ただ,吉田の走り方からすると原田との先行争いは十分に推測していたように思えますので,とんだ見当違いであったことになります。吉田の3番手を取ったのはうまかったのですが,先行争いが長引いたためインで不発という展開になりそうでピンチに陥ったかにみえました。しかし早坂の駆けたタイミングで地元の岩津が出ていくことになり,進路ができました。結果オーライではありますが,3番手を狙った作戦がよかったということにはなるでしょう。
運命とは何であるかを考えることは意味がないと僕は思っています。ただ,スピノザの時代において神学と哲学との関連では,運命がことば自体として特別の意味を有していました。スピノザの思想に対する批判のひとつに,スピノザは神Deusを運命に従属させているといういい回しがみられるからです。そこでこの点について簡単に僕の見解を表明しておきます。
神を運命に従属させているといういい回しがスピノザに対する批判であり得たことから分かるように,運命という語は,少なくとも神との関係においては否定的な意味をもっていました。いい換えれば神は運命に従属することはないと認識されていたということです。そしてこの点については,スピノザの認識も同一であったとみなしてよいと思います。典型的な例をあげれば,第一部定理三三備考二で,意志と善意を比較して,神の本性に意志voluntasを認めることは神の本性に善意を認めることより真理veritasに近い,真理ではないけれど真理に近いとスピノザがいうとき,神の本性に善意を帰することは神を運命に従属させることにほかならないといういい回しでそれを批判しているからです。
『知の教科書 スピノザ』では,神の本性に意志を認めるのはデカルトの考え方で,神の本性に善意を認めるのがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの考え方であると書かれています。これは正しい主張であると僕は考えます。ただ,スピノザはデカルトの哲学については詳しく知っていましたが,ライプニッツの哲学を同じように知っていたということはあり得ません。したがってスピノザがここでデカルトの方がライプニッツよりましであるという意味のことを主張したということはない筈です。
スピノザが神を運命に従属させたと批判されたのは,神の本性に意志を認めなかったことが大きな原因となっていると思います。しかしすべてが神の本性の必然性necessitasによって生じる,神も神自身の本性の必然性によって生じるということは,スピノザにとっては神を運命に従属させるどころか,神の完全性perfectioを最高にするために必須でした。なのでその必然性から生じること自体を運命という語で表現することを,スピノザはしなかったろうと僕は思います。
石井がスタートを取って前受け。2番手に村上,4番手に原田,7番手に早坂,8番手に吉田という周回に。吉田から動いていきましたが,残り2周のホームからバックにかけてかなり原田を牽制していきました。バックに入ってから吉田が踏み込むと,村上が合わせるように出ていき,打鐘で先行態勢に入った吉田ラインの3番手を取りました。ずっと蓋をされていた原田は前が開くと発進。ホームで吉田に襲い掛かりましたが吉田が応戦したのでここからバックまで先行争いに。8番手まで引いていた早坂がバックから発進すると,原田ラインの3番手を追走していた岩津がそれに合わせて自力で発進。この捲り争いは岩津の方が制して直線では先頭に。流れ上ずっとインで詰まっていた村上は岩津が自力に転じたことでこれを追い掛けることができ,コーナーでは早坂のさらに外に。さらに外を捲ってきた石井を弾くとそのまま直線も外から伸びて岩津を捕えて優勝。岩津が4分の3車身差で2着。村上マークの金子が4分の3車輪差で3着。
優勝した京都の村上義弘選手はKEIRINグランプリ2016以来の優勝。記念競輪は昨年4月の高知記念以来の通算32勝目。玉野記念は2013年以来4年ぶりの2勝目。僕はこのレースは先行は吉田で,3番手を取った選手が有利になると思っていて,先行争いは想定していませんでした。ただ,吉田の走り方からすると原田との先行争いは十分に推測していたように思えますので,とんだ見当違いであったことになります。吉田の3番手を取ったのはうまかったのですが,先行争いが長引いたためインで不発という展開になりそうでピンチに陥ったかにみえました。しかし早坂の駆けたタイミングで地元の岩津が出ていくことになり,進路ができました。結果オーライではありますが,3番手を狙った作戦がよかったということにはなるでしょう。
運命とは何であるかを考えることは意味がないと僕は思っています。ただ,スピノザの時代において神学と哲学との関連では,運命がことば自体として特別の意味を有していました。スピノザの思想に対する批判のひとつに,スピノザは神Deusを運命に従属させているといういい回しがみられるからです。そこでこの点について簡単に僕の見解を表明しておきます。
神を運命に従属させているといういい回しがスピノザに対する批判であり得たことから分かるように,運命という語は,少なくとも神との関係においては否定的な意味をもっていました。いい換えれば神は運命に従属することはないと認識されていたということです。そしてこの点については,スピノザの認識も同一であったとみなしてよいと思います。典型的な例をあげれば,第一部定理三三備考二で,意志と善意を比較して,神の本性に意志voluntasを認めることは神の本性に善意を認めることより真理veritasに近い,真理ではないけれど真理に近いとスピノザがいうとき,神の本性に善意を帰することは神を運命に従属させることにほかならないといういい回しでそれを批判しているからです。
『知の教科書 スピノザ』では,神の本性に意志を認めるのはデカルトの考え方で,神の本性に善意を認めるのがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの考え方であると書かれています。これは正しい主張であると僕は考えます。ただ,スピノザはデカルトの哲学については詳しく知っていましたが,ライプニッツの哲学を同じように知っていたということはあり得ません。したがってスピノザがここでデカルトの方がライプニッツよりましであるという意味のことを主張したということはない筈です。
スピノザが神を運命に従属させたと批判されたのは,神の本性に意志を認めなかったことが大きな原因となっていると思います。しかしすべてが神の本性の必然性necessitasによって生じる,神も神自身の本性の必然性によって生じるということは,スピノザにとっては神を運命に従属させるどころか,神の完全性perfectioを最高にするために必須でした。なのでその必然性から生じること自体を運命という語で表現することを,スピノザはしなかったろうと僕は思います。