第三部定理五九備考から理解できるように,スピノザが「精神の強さfortitudo」というとき,それは現実的に存在する人間の精神mens humanaの状態を直接的に意味するというわけではありません。確かにそこでスピノザは十全に認識する限りにおける精神に関する感情affectusから生じるすべての活動といっていて,それは何らかの活動状態を意味しているようにも解せます。ですがここでいわれている活動というのは能動actioという意味であって,それに注意するなら,「精神の強さ」というのと精神の能動actio Mentisというのが同じ意味になってしまいます。その後の部分でスピノザが「精神の強さ」を勇気animositasと寛仁generositasとに分かつとき,それらは共に欲望cupiditasであると規定されています。欲望はスピノザの哲学における基本感情affectus primariiのひとつです。したがって「精神の強さ」というのもそういう欲望すなわち感情であると解するべきだと僕は考えます。僕たちは普通は「精神の強さ」というのを感情あるいは欲望とはみなしませんから,この点では注意が必要です。
ただし,「精神の強さ」が精神の能動と何ら関係を有さないというわけではありません。僕たちは様ざまな欲望を体験します。そのほとんどは受動的なものなのですが,第三部定理五九から分かるように,僕たちの能動に関係する欲望というのも存在します。これらの欲望のうち,精神の能動によって発生する欲望が,「精神の強さ」といわれているのです。したがって「精神の強さ」は精神の状態を直接的には意味するわけではありませんが,間接的にはそれを含意していると解しておくのがよいと考えます。
『破門の哲学』では,「精神の強さ」ではなく,「精神の逞しさ」という訳が与えられています。しかし「精神の強さ」といおうと「精神の逞しさ」といおうと,一般的にいえばそれがある欲望を意味するという印象を持つことはないでしょう。なので僕は「精神の強さ」という訳の方を選択しますが,これが精神の能動によって生じる欲望であるという意味であるという点には,常に注意しておいてほしいと思います。
コレルスJohannes Colerusの伝記のうちにみられるコルデスの評価が,コレルス自身によるものなのかスぺイクの証言に基づいたものであるかは不明です。ただ,たとえそれがコレルス自身による評価であったと仮定しても,スぺイクもまたコルデスを高く評価していたであろうことは間違いないと思います。このことから,スぺイクの精神mensのうちにあるスピノザの観念ideaが,コルデスを尊敬しまた賞賛するような人物の観念であるということは,自然なことであるといえるでしょう。もしもスぺイクが,スピノザがコルデスを,あるいは逆にコルデスはスピノザを,嫌っているというように表象した場合には,第三部定理三一にあるような心情の動揺animi fluctuatioをスぺイクは感じることになります。しかしスぺイクの証言を基にしたこの部分の記述の中には,そうしたことを疑わせる内容は含まれていません。実際にはこの部分には,コルデスがスピノザをどのように評価していたのかということは何も書かれていないのですが,スピノザがコルデスに対して示していた態度を事実であるとした場合には,コルデスもまたスピノザのことを嫌ってはいなかったということを前提にしないと成立しない部分が多く含まれていると僕には思えます。実際にはその種の証言もスぺイクはしたのであって,しかしルター派の説教師で自身の前任者であったコルデスがスピノザを評価していたとすればそれは都合がよくないので,コレルスは意図的にその証言は記述しなかったという可能性もないとはいいきれないでしょう。
いずれにしても,スぺイクの目からはスピノザがコルデスを尊敬しているようにみえていたのであって,このことに関してそれを意図的に強調することはあったとしても,スぺイクが虚偽の証言をしたわけではないだろうと僕は判断します。そしてスピノザとの間でコルデスに関する話題になることがあって,スピノザはコルデスのことを賞賛しているという文脈でスぺイクはスピノザのことばを解しそうですから,賞賛していたというのも,スぺイクの目からは虚偽ではないと思います。ただしそれは,スピノザが実際にそうだったということではないので,スピノザについての信憑性ではありません。
ただし,「精神の強さ」が精神の能動と何ら関係を有さないというわけではありません。僕たちは様ざまな欲望を体験します。そのほとんどは受動的なものなのですが,第三部定理五九から分かるように,僕たちの能動に関係する欲望というのも存在します。これらの欲望のうち,精神の能動によって発生する欲望が,「精神の強さ」といわれているのです。したがって「精神の強さ」は精神の状態を直接的には意味するわけではありませんが,間接的にはそれを含意していると解しておくのがよいと考えます。
『破門の哲学』では,「精神の強さ」ではなく,「精神の逞しさ」という訳が与えられています。しかし「精神の強さ」といおうと「精神の逞しさ」といおうと,一般的にいえばそれがある欲望を意味するという印象を持つことはないでしょう。なので僕は「精神の強さ」という訳の方を選択しますが,これが精神の能動によって生じる欲望であるという意味であるという点には,常に注意しておいてほしいと思います。
コレルスJohannes Colerusの伝記のうちにみられるコルデスの評価が,コレルス自身によるものなのかスぺイクの証言に基づいたものであるかは不明です。ただ,たとえそれがコレルス自身による評価であったと仮定しても,スぺイクもまたコルデスを高く評価していたであろうことは間違いないと思います。このことから,スぺイクの精神mensのうちにあるスピノザの観念ideaが,コルデスを尊敬しまた賞賛するような人物の観念であるということは,自然なことであるといえるでしょう。もしもスぺイクが,スピノザがコルデスを,あるいは逆にコルデスはスピノザを,嫌っているというように表象した場合には,第三部定理三一にあるような心情の動揺animi fluctuatioをスぺイクは感じることになります。しかしスぺイクの証言を基にしたこの部分の記述の中には,そうしたことを疑わせる内容は含まれていません。実際にはこの部分には,コルデスがスピノザをどのように評価していたのかということは何も書かれていないのですが,スピノザがコルデスに対して示していた態度を事実であるとした場合には,コルデスもまたスピノザのことを嫌ってはいなかったということを前提にしないと成立しない部分が多く含まれていると僕には思えます。実際にはその種の証言もスぺイクはしたのであって,しかしルター派の説教師で自身の前任者であったコルデスがスピノザを評価していたとすればそれは都合がよくないので,コレルスは意図的にその証言は記述しなかったという可能性もないとはいいきれないでしょう。
いずれにしても,スぺイクの目からはスピノザがコルデスを尊敬しているようにみえていたのであって,このことに関してそれを意図的に強調することはあったとしても,スぺイクが虚偽の証言をしたわけではないだろうと僕は判断します。そしてスピノザとの間でコルデスに関する話題になることがあって,スピノザはコルデスのことを賞賛しているという文脈でスぺイクはスピノザのことばを解しそうですから,賞賛していたというのも,スぺイクの目からは虚偽ではないと思います。ただしそれは,スピノザが実際にそうだったということではないので,スピノザについての信憑性ではありません。